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銀の馬車道 鉱石の道

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 「実はこの山奥は、かつて銀山として栄えた所なんです」

 地元の昔話を始めると、観光客の優しいまなざしが、驚きのそれに変わる。

 私が住む朝来市の神子畑(みこばた)地区は、但馬南部に位置する小さな集落だ。歴史をさかのぼれば、「但馬金銀銅山旧記」に「1491年から40年にわたって大いに栄え、間歩(まぶ)(坑道)は93カ所ある。多くの人々が移り住み、繁盛して寺社も多く…」とある。

 その後、生野銀山(同市)が繁栄し神子畑は休山するが、約300年後の明治の初め、良質の銀鉱脈が再発見される。そして1885(明治18)年、神子畑の銀鉱を生野へ運ぶ約16キロの馬車道が造られた。後に明延鉱山(養父市)まで続く「鉱石の道」である。

 馬車道には五つの鋳鉄製の橋が架けられた。その一つが神子畑に残る国の重要文化財・神子畑鋳鉄橋だ。設計者は不明だが、神奈川県横須賀市の横須賀製鉄所で造られたことは確かだ。

 フランス・パリで、ほぼ同時期に建設されたエッフェル塔を思わせるアーチ形から、仏人技師が何らかの形で建造に関わっていたのではないかと推察される。

 鋳鉄橋が山あいにひっそりたたずむ風景は、決して目を見張るものではないが、その歴史をたどると実にロマンがある。

 明治末期には神子畑の銀の採掘量が衰退するが、明延鉱山で次々と良鉱が発見され、1919(大正8)年、明延鉱山専用の選鉱場として生まれ変わった。

 最盛期の50年代終わりごろには、全長約1キロの山あいに約400世帯、1300人余りが暮らした。神子畑選鉱場は24時間、「ゴーゴー」と音を立て、不夜城のごとく明々と夜空を照らしていた。現在からは想像もできないにぎわいであった。

 87年、明延鉱山の閉山で、神子畑選鉱場は閉鎖される。大半の従業員と家族はこの地を去り、社宅や映画館、ホールなどは次々と取り壊された。一方、鋳鉄橋や選鉱場跡、明治期に生野鉱山の仏人技師が住んだ洋風建築「ムーセ旧居」などの歴史遺産は残った。

 神子畑の人口は今、23世帯34人。2011年、地元有志で「神子畑鉱石の道推進協議会」を立ち上げ、産業遺産を守りながら観光ガイドを始めた。近年の産業遺産ブームに加え、昨年は「播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」が日本遺産に認定され、関東や九州などからもバスツアーが訪れる。年間の観光客数は約1万5千人。ガイドの予約は11月までびっしりだ。

 私の曽祖父は明治政府の拝命で、生野鉱山まで続く馬車道で銀鉱石の運搬を請け負った。祖父は郷土史を研究し鉱山関係の手記を数多く残し、父は神子畑鋳鉄橋の保全に尽力した。この遺志を継ぎ、貴重な産業遺産を後世へつなぐことの責任を痛感している。

▽やまうち・たかじろう 1944年朝来市生まれ。神子畑区長。地元金融機関などに勤めた後、2011年に「神子畑鉱石の道推進協議会」を設立。「鉱石の道」のPRに向け、近隣地区代表と「朝来鉱石の道協議会」を準備中。

2018/7/22
 

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