連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

銀の馬車道 鉱石の道

  • 印刷
西光寺野のため池の横を通る馬車道の跡=福崎町
拡大
西光寺野のため池の横を通る馬車道の跡=福崎町

 兵庫県市川町の屋形区を出た銀の馬車道は、ほどなく国道312号と再合流する。やがて福崎町の市街地に入って辻川北交差点を東に折れていく。

 その名の通り辻川は、加西市の北条から佐用町に至る東西の道と、飾磨津から生野に向かう南北の道が交わる「辻」に古くから開けたところ。東西の通りには柳田國男とゆかりの深い大庄屋三木家住宅なども残っており、往時の面影をとどめている。日本民俗学の創始者として知られる柳田は、幼少の頃1年間三木家に預けられ、同家の膨大な蔵書をむさぼり読んだ。そのことが後年の民俗学研究の礎になったといわれている。

 その三木家をはじめ沿道の家々は、通りが馬車道として拡幅される際、協力して塀や建物をセットバックしたとも伝えられている。現在は辻川山公園に移設されている石造の巌橋も、元は辻川の南を流れる岩尾川(雲津川)に架かっており、馬車道の建設時に頑丈な石橋に架け替えられたのだという。

 馬車道は辻川から南東に進み、田尻交差点を越え、県道西田原姫路線となって、西光寺野と呼ばれる広大な河岸段丘の上を南下していく。ほぼまっすぐな一本道で、道沿いにため池が多いことに気づく。西光寺野は福崎町南部と姫路市北部にまたがる約328ヘクタールもある河岸段丘だが、水利が悪いため大半が原野のまま放置されていた。

 ところが明治に入って馬車道が開通。その存在が改めて知られて開拓の機運が一気に高まり、たび重なる失敗の後、1912(大正元)年に本格的な水利工事がスタートした。総延長8・8キロに及ぶ疎水路が誕生し、ため池の改修や築造が行われ、15年に完工した。

 馬車道が広大な大地を切り裂いて伸びる写真が残っているが、その頃の様子をよく物語っている。あれから150年近くを経た今も、馬車道は西光寺野の高みをほぼまっすぐに、どこまでも伸びているのである。 (バンカル副編集長・谷川恵一)

2017/2/11
 

天気(9月8日)

  • 33℃
  • ---℃
  • 40%

  • 33℃
  • ---℃
  • 50%

  • 34℃
  • ---℃
  • 20%

  • 34℃
  • ---℃
  • 40%

お知らせ