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銀の馬車道 鉱石の道

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■馬車道の歴史 正しく理解を

 今、「銀の馬車道・鉱石の道」が熱い注目を集めている。

 「銀の馬車道」は正式には「生野鉱山寮馬車道」と呼ばれ、1876(明治9)年に完成した。生野銀山から飾磨港まで約49キロに及ぶ馬車専用道路で、「日本初の高速道路」であることは多くの人に知られるところである。そしてそれは、明治新政府による生野銀山近代化事業の一環として、「物資輸送の効率化と経費節減のために整備された」道であった。また、この「馬車道」の完成と同年、フランス人技師コワニエ氏の指導により生野に近代化の粋とされた「製鉱所(精錬所)」が完成した。

 文化庁の「日本遺産」認定申請が今月初旬に締め切られたが、中播磨・但馬の6市町では「銀の馬車道 鉱石の道」を再度申請した。管内では官民挙げてさまざまな取り組みを計画中である。

 「日本遺産」に認定されれば、「銀の馬車道」が大きく動きだす。しかしその前に、中播磨から但馬地域をはじめ、県の財産であるこの「馬車道」の成り立ちや意味を認識しておく必要がある。

 なぜなら「銀の馬車道」は「鉱石を運ぶために造られた道ではなく、『物資輸送』の道」であるのだが、さまざまなメディアにより「銀の馬車道は鉱石輸送用の産業道路」と位置付けされそうな状況にあり、危惧を感じているからである。

 一般に、生野から「(製鉱所で)精錬された純度の高い銀」を飾磨港へ運び、復路では「製鉱所で使用する品々や、生活物資を運んだ」とされる。だが、生野銀山で採掘した「(銀)鉱石」を運んだという事実は見つからない。

 しかし、これまで多くのメディアでは「銀の馬車道は鉱石輸送用の産業道路」うんぬんと記述されてきた。官公庁によって発行されたパンフレットにおいてさえ、鉱石を運んだ馬車の挿絵がなされたりもしていた。

 恐らく、それは、同時代に「明延・神子畑(みこばた)~生野」間に開通した「『鉱石』の道」と混同されたためと考えられる。「日本遺産」認定に向けて、生野を核とした「鉱石の道」との連携はもちろん大切であるが、それぞれの「道」の持つ意味は全く違うのだ。

 「銀の馬車道」はやがて1895(明治28)年、播但鉄道の開通によりその役目を終えるが、直前の92年に、大阪に精錬所が建設されていることが記録に残っている。特筆するとすれば、このわずかな期間は「銀の馬車道」において「(銀)鉱石」が運ばれたかもしれない。

 いずれにしても、明治期に整備された「二つの道」の原点を明確にし、史実と忠実に向き合いながら、まちづくりに取り組まれることを願う。

 「日本遺産」認定後に「銀の馬車道」が運ぶものは、未来への「夢」と「希望」であるから。

▽あだち・ゆみこ 1956年、福崎町生まれ。建築事務所勤務を経て、環境設計開設。1級建築士。地域環境・歴史的景観を基に地域の活性化に取り組み、まちづくりへの提言を行う。兵庫県ヘリテージマネージャー。

2017/2/26
 

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