
撮影・木皿泉
何かを盗んだことなどないと思い込んでいたが、よく考えると一度だけあった。40年ほど前の話だが、図書館で借りた本をずるずると返さず、ずっと手元に置いていた。それは、三島由紀夫の「葉隠(はがくれ)入門」という本だった。江戸時代に書かれた武士の心得の口伝を、三島が解説したもので、なぜそんなものに興味を持ったのか今となってはわからない。
その本は、何度も引っ越したにもかかわらず、ずっと家の本棚にあった。スティーブン・キングの「図書館警察」という小説は、そんなふうに返しそびれた図書館の本を突然返せと見たこともない者がやってくる、とても怖い話だった。なので、今でも心がチクチク痛み、できれば返したいと思っているのだが、その本がどこにあるのかまるでわからないのである。見えないけれど、それはあるはずで、盗んだものが家にあるというのは、いったんそれに気づいてしまうと落ちつかないものである。
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