エッセー・評論

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イラスト・金益見
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 中学時代、私はいじめられていました。

 小学生の頃から「近所の中学、ヤンキーばっかりで嫌(いや)やな」と思っていたのですが、入学すると予想以上でした。

 授業を妨害するヤンキー、乱暴な言葉で同級生をからかうヤンキー、聴いてる音楽がダサいヤンキー…とにかくヤンキーの全てが嫌でした。

 また、そんなヤンキーたちへの教育に情熱を注ぐ熱血先生が、普通の子はほったらかしという状況にも納得がいきませんでした。ヤンキーが少しでも更生したら盛大に褒められ、普通の子がおとなしく授業を受け、掃除をさぼらず、テストで平均点以上を取っても褒められることはありませんでした。

 校則より厳しいのは「センパイ」でした。渡り廊下で、帰り道で、どんな場所でセンパイに出くわしても「コンニチハーコンニチハー」と挨拶(あいさつ)の嵐…。私はテニス部だったのですが、「1年生は日焼け止めを塗ってはいけない」「木のラケットしか使ってはいけない」といった謎のルールがありました。ヤンキーでない人たちが後輩を謎ルールで締め付けるのは、日頃のヤンキー優遇の鬱憤(うっぷん)を晴らしていたのかもしれません。

 いじめは、当たり前のように始まりました。普通にしていたら順番にいじめられるような状況でしたが、特に私の場合、期間が長かったので大変でした。無視、リンチ、すれ違うだけで「きっしょ」と怒鳴られる…。でも、いじめられるようになってから、私の「毎日」は際立っていきました。

 ヤンキーの顔をうかがって表面上無視している女の子たちは陰で「応援レター」をくれました。かばってくれる男子もいました。ヤンキーのいじめが陰湿なものではなく、目立つものだったので(リンチも校舎裏ではなく廊下でした)、なんとなく自分が悲劇のヒロインになった気分でした。その立場だからこそ見えてくる、ヤンキーではない人たちの弱さやズルさ、ヤンキーの中にも不器用なヤンキーと狡猾(こうかつ)なヤンキーがいることなど、発見の毎日でもありました。

 授業でそんな中学時代の話をしたとき、ある学生から「先生はつらかったときのことをそんなふうに話せてすごいです、尊敬します!」というような感想をもらいました。

 そのとき私は、猛烈に恥ずかしくなりました。「こんないじめを乗り越えました!」といったふうに、自分のいじめられた経験を一般化して、その解決策を学生に語ってしまったのではないかと反省しました。いじめられた経験は、そのつらさも克服の仕方も人によって違います…。私は反省する中で、「そもそもいじめってなんだろう」という問いを持ちました。そこで社会学者の宮台真司さんの「いじめの定義」に出会ったのです(以下引用)。

 世間が言うように「人のイヤがることをするのがいじめ」ならば、「絶対にいじめはなくならない」という話で終わってしまう。

 だから僕はいじめの定義を「尊厳が回復不可能になるまで傷つけるようなイヤがらせをすること」だと考えるべきだと思うんだ。

 宮台さん曰(いわ)く、尊厳というのは、人とのコミュニケーションを通じて、自分で自分を信じられるようになること、それが破壊されるのが「いじめ」だということでした。

   *    *

 いじめの定義に納得した私は、同時に衝撃を受けました。なぜなら自分がいじめられていなかったことに気づいたからです。

 当時の私の尊厳はひとつも傷ついていませんでした。むしろ新しい自分に出会って、ますます自信がついた中学時代でした。そして私への嫌がらせが長引いた理由を思い出したのです。

 あのとき私は、女番長の彼氏が好きでした(そして、その彼もまんざらじゃなさそうでした)。

 …冒頭の言葉を訂正します。「中学時代、私は女番長に盛大なヤキモチを焼かれていました」

【金益見(きむ・いっきょん)】神戸学院大人文学部講師。博士(人間文化学)。1979年大阪府生まれ。大学院在学中に刊行した「ラブホテル進化論」で橋本峰雄賞を受賞。漫画家にインタビューした「贈りもの」、「やる気とか元気がでるえんぴつポスター」など著書多数。

2019/10/9
 

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