エッセー・評論

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イラスト・金益見
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イラスト・金益見

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 4月のはじめに新入生に、「もう、無理してグループをつくらなくていいんですよ」というお話をしました。「友達をたくさんつくってください」という、入学式によく言われる挨拶と真逆だったので、驚いた学生さんもいたかもしれません。

 そこでは、友達という存在を否定したかったのではありません。「大学には一人で謳歌(おうか)する選択肢がたくさんあること」と、それは結構楽しいことだということを伝えたかったのです。

   * * *

 「スクールカースト」という、インドのカースト制になぞらえて生まれた言葉があります。コミュ力(コミュニケーション能力)や運動能力、容姿などによって格付けされた個人がグループをつくる→同学年の間に「上下」のグループができる→教室内に地位の差が生まれる…そんな学級階層を指す言葉です。

 そこでは、事あるごとにクラスを牛耳るグループもあれば、休み時間に大声ではしゃぐことすら許されないグループもあり、なぜかそれを全員が受け入れているという体制がつくられます(それがいじめにつながることも多々あります)。

 私が学生だった頃は「スクールカースト」という言葉はなかったのですが、クラスのなかで明らかにヒエラルキーがあることは感じていました。教室に漂う、イケてるグループの大きな笑い声、そうでないグループの遠慮…新学期が始まると、どこかのグループに属することで、自分の位置が確立する…。

 社会学者の鈴木翔さんはスクールカーストについて、教師と生徒の捉え方の差を指摘しています。教師はそれを能力の差であると考え、生徒間ではそれは権力の差だと認識しているというのです。

 しかし、能力の差など、本当にあるのでしょうか。私は学生・生徒はみんなそれぞれ違う能力を持っていると思っています。

 例えば、明るくて話をするのが上手な人はコミュ力が高いように見えるのですが、おとなしくて話を聞くのが上手な人も十分コミュ力を持っています。つまり、評価しやすい力もあれば、言語化しにくい力もあるということです。大人(教師や親)の役割のひとつは、子どもの個々の力を発見し、導いていくことなのではないでしょうか。

 次に権力の差。教室内で、どのグループに属しているかで力関係が変わるなんておかしな話です。しかし、それが現実に起こっています。その現実をつくり出しているのは誰でしょうか。それは、自分自身の目なのではないでしょうか。自分で自分を意識する目。他人を評価する目。そして、自分が他人からどう思われているかを意識する目。

   * * *

 そんな私が、大学に入って一番うれしかったことが「無理してグループに入らなくても浮かないこと」でした。

 冒頭に書いたように、友達という存在を否定するつもりはありません。むしろ、「ナチュラルにお互いの意見を言い合い、聞き合える関係」や「共感を喜び、違いに学びを見いだせる関係」を他人と築き上げることは素敵(すてき)なことです。グループのなかで、そんな友達と出会えることもあるでしょう。

 しかし一方で、どんなに仲がいい友達であっても、その人と一生一緒に過ごすわけではありません。そういう意味では、自分自身と一番の友達になれたら素晴らしいと思いませんか。

 友達をつくらなければならない「常識」にとらわれて、グループからはみ出ないように「私もそう思う」という心ない賛同を繰り返すと、「本当の自分」を見失ってしまいます。

 大切なのは、自分に必要なものが何かを知ることです。自分に必要なピースが見つかると、自分が行くべき場所の地図が完成します。そうすると、自分がやりたいことや、やるべきことがちゃんと見つかります。

 大学では、授業も人間関係も、自分に関わるたくさんのことを「選べます」。自身が活(い)き活(い)きと生きられる場所を、ぜひ発見してください。

【金益見(きむ・いっきょん)】神戸学院大人文学部講師。博士(人間文化学)。1979年大阪府生まれ。大学院在学中に刊行した「ラブホテル進化論」で橋本峰雄賞を受賞。漫画家にインタビューした「贈りもの」、「やる気とか元気がでるえんぴつポスター」など著書多数。

2018/4/11
 

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