私が担当するゼミには研究発表会があり、発表後に全員にコメントをしてもらっています。そのとき、ゼミ生に毎回話すことがあります。
「褒めるときは短いコメントでもかまいませんが、批判するときは言葉を尽くしてください。うれしい言葉は多少大ざっぱでもそれなりに伝わったりしますが、批判は工夫して伝えないと否定に聞こえてしまうことがあります」
すると、こんな質問をする学生がいます。
「先生、批判と否定はどう違うのですか?」
ここで、私は答えます。
「低級な批判は否定に近づいてしまいますが、高級な批判は、可能性と希望を生み出すものなんですよ」
このわかりにくい答えに、学生は大概困惑するのですが、私は(正直に)続けます。
「『高級な批判』という文言は受け売りです。でも私にとって、指針になっている考え方でもあるので、引用が多くなりますが、紹介させてください」
* * *
この世には「高級な批判」というものがあるということを、私はある人から教えてもらいました。学会の批判的なツッコミが苦手で、それを友人の研究者に愚痴っていたら、彼女が内田義彦さん(経済学者、思想家)の本をプレゼントしてくれたのです。そこに書かれてあったことが以下の文章です。
「よくあの人は批判能力が勝(すぐ)れているといいますけれども、つまらない面、-あそこは間違っているとか、下らないとかいった消極的な面を発見する能力を指していう場合が多いようです。これももちろん批判ですが、私はこれを低級の批判力と名づけています。本当の批判力とは、俗眼に見えない宝を-未(いま)だ宝と見られていない宝を、宝として-発見する能力です。ポジティヴにものを見る眼ですね」
「何か、学問であれ仕事であれ何か事を成した人は、そういう眼をもっているんですね。俗眼が見逃しているような、見逃して絶望だ絶望だといっているような勝ち手を発見する。要するに思わざるところに存在している思わざる宝を発見する。これが高級な批判力です」(内田義彦「読書と社会科学」岩波書店、1985年)
私はこの本が好きで何度も読み返しているのですが、特にこのくだりに心が震えます。そして思うのです。
丁寧に、冷静に、その人がつくったものに向き合う。本人も気付かなかったようなキラリと光る部分を見つける。そこを照らすように、紡ぐように、言葉を重ねる。そうすることでそのものがより輝き出すような高級な批判は、全てをハッピーに導くのではないかと!
* * *
先日、研究室の前のホワイトボードに、学生がメッセージを書いてくれていました。そこには、46文字のお礼の言葉が書かれていました。
私は、その子が私の研究室がある棟を探して、階段(エレベーター?)を上って、扉の前まで来て、メッセージを残してくれたことがとてもうれしいと思ったと同時に、短い文章でも「ありがとう」という言葉に単純にシンプルに心が満たされたのです。
つまり冒頭に書いたように、褒められたときは、大ざっぱに(ある意味自分勝手に)承認されたことを花束のように受け取れるものです。
しかし、否定的な言葉はどうでしょう。例えば「死ね」というメッセージがそこにあれば、それが命令なのか、中傷なのか、興味なのか…とても大ざっぱに受け取ることはできません。
人は褒められるとうれしい。けなされると苦しい。特に否定的な言葉は本人の解釈によって無限に負の連鎖を生み出しかねません。
だから、褒めるときは大ざっぱでもかまわないけど、否定はよくない。問題を感じたのなら、高級な批判。本人でさえもわかっていなかったその人の輝く何かを見つけられたら、全人類のハッピーにつながる気がしませんか。私は、そんな高級な批判力に憧れてやまないのです。
【金益見(きむ・いっきょん)】神戸学院大人文学部講師。博士(人間文化学)。1979年大阪府生まれ。大学院在学中に刊行した「ラブホテル進化論」で橋本峰雄賞を受賞。漫画家にインタビューした「贈りもの」、「やる気とか元気がでるえんぴつポスター」など著書多数。
2018/5/9