エッセー・評論

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イラスト・金益見
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イラスト・金益見

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 「夕やけを見ても あまりうつくしいと思はなかったけれど じをおぼえてほんとうにうつくしいと思うようになりました」

 これは、1905(明治38)年に高知県で生まれた北代色さんが70歳の時に書いた文章の一部です。

 北代さんは学齢期に学校に行くことができず、文字を知らないまま大人になりました。やがて識字学級に通い、字が書けるようになった喜びを表現したこの文章はまるで詩のようで、何度読んでも心にグッときます。

   * * *

 私は今、夜間中学の研究をしています。夜間中学では、戦中戦後の混乱期の中で義務教育を修了できなかった人や、ニューカマー、不登校の若者など、多様な背景を持った人たちが学んでいます。

 最初、現場に入り込んで調査したのは大阪の夜間中学で、そこには在日コリアン1世2世のハルモニ(おばあさん)たちがたくさん通っていました。日本語を話せても、文字の読み書きが十分にできないハルモニたちのほとんどは識字が目的で、文字の書き取りの時間の集中力には目を見張るものがありました。

 印象的だったのは、授業後の机の上に残る消しカスの山でした。書いた文字を何度も消しゴムで消しては書き直すので、消しカスが山のようになってしまうのです。

 冒頭で引用した文章にもあるように、文字を習得していくと、世界が違って見えるといいます。それをある夜間中学生は「目が忙しくなる」と表現していました。看板や広告など、街にあふれる文字をひとつひとつ読んでしまうので、歩くだけで目を使う機会が増えるのだということでした。それを聞くと、(文字が読める)私は知らず知らずのうちに必要な情報だけを編集しながら街を歩いていることに気がつきました。

 夜間中学生たちは、小学1年生が習う漢字を覚えると、まず表札を読みながら歩きます。名字は「山下」や「田中」など、読める漢字が多いからです。

 文字を習得した方は「カラオケに行く楽しみができた」と笑顔で語ってくれました。今までカラオケに行っても、歌詞を丸暗記している歌しか歌えなかったのだそうです。カラオケ以外にも、映画の字幕、テレビのテロップ、LINEのやりとりなど…文字は今や私たちの娯楽の一部にもなっています。

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 改めて考えてみると、文字は私たちの暮らしにかけがえのないモノになっていることに気づきます。社会学者の橋爪大三郎氏は文字について以下のように述べています。

 「文字というのは、すばらしい工夫で、言葉を写し取るモノというか、記号なんですね。言葉は文字に写し取られた時点で、固定したモノになって、もはや変化をしなくなります。そして、繰り返し再認できます。文字を再認することを、読むといいます。そうすると、伝聞と違って、あいだに誰かを介さなくても、いつでも言葉が再現できます」

 文字に写し取られた言葉は無限にその到達距離を伸ばすことができる…私たちが、何千年も前に書かれた書物を読むことができるのは、文字があるからです。今、小さな部屋で綴(つづ)っているこの文章を、まだ会ったことのない学生さんに届けることができるのは文字があるからです。

 夜間中学で学ぶハルモニたちの話を講義ですると、ある学生からこんな感想をもらいました。

 「私たちは文字のもったいない使い方をしているかもしれません…よく考えると文字を使って総理大臣にだって手紙を書けるんですよね。文字でたくさんのことを伝えられるのに、実際はツイッターで『今日バイトだるい』とかつまらない発信にしか文字を使ってないなあと…」

 私たちは文字を使って、遠い未来の人々に何かを残すことができます。愛する人に想(おも)いを伝えることもできます。その文字が誰かの心の栄養源になることだってあるのです。「しょうもない文字の使い方をするのはもったいなぁ」と思えたら、未来にもっとずっと素敵(すてき)な言葉を届けられるのかもしれません。

【金益見(きむ・いっきょん)】神戸学院大人文学部講師。博士(人間文化学)。1979年大阪府生まれ。大学院在学中に刊行した「ラブホテル進化論」で橋本峰雄賞を受賞。漫画家にインタビューした「贈りもの」、「やる気とか元気がでるえんぴつポスター」など著書多数。

2018/7/11
 

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