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広島で被爆し、大けがの中街中を逃げ回った体験を語る石橋恒さん=尼崎市築地5(撮影・斎藤雅志)
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広島で被爆し、大けがの中街中を逃げ回った体験を語る石橋恒さん=尼崎市築地5(撮影・斎藤雅志)
「高齢者の話を聞いて、何ができるか考えていきたい」と語る稲山茉佑さん=西宮市和上町(撮影・村上貴浩)
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「高齢者の話を聞いて、何ができるか考えていきたい」と語る稲山茉佑さん=西宮市和上町(撮影・村上貴浩)

 「ほかのことは忘れてしまっても、あの朝のことはありありと記憶に残っている」。尼崎市に住む石橋恒さん(92)は77年前の8月6日、広島で被爆した。体調面の不安から、最近は語ることを控えようと思っていた。それでも、一人の高校生の思いに背中を押され、今年も語ることを決めた。「これが最後かもしれん。人類が二度と経験してはいけない歴史を、伝えないといかん」(久保田麻依子)

■水が青白く光った

 広島・呉市の倉橋島で生まれた。15歳で、就職先の東洋工業(現・マツダ)のある広島市の寮に入り、8月6日は早朝から建物疎開の作業をしていた。

 夏らしい、晴天だった。

 ふいに、上空を通過する飛行機を仰ぎ見た。休憩のため水を飲もうと蛇口をひねったとき、水が青白く光り、記憶がぷつりと切れた。

 爆心地から約1キロ東側の地点で吹き飛ばされ、誰かに背中を踏みつけられて意識が戻った。左腕は肩から肘にかけてやけどでただれていたが「逃げることに必死で。痛みは感じなかった」。爆風で衣服もはだけ、はだしで数キロ先の寮を目指した。川には遺体が折り重なり、うめき声がそこら中から聞こえた。「地獄だった、としか言いようがない」

 一晩かけて寮に戻ると、家族が島から迎えに来てくれていた。療養は2年にも及び、今も左腕には大きなケロイドが残る。姉夫婦を頼って関西に移り住むと、原爆による就職差別や心ない言葉も浴びた。尼崎に構えた鉄工所は、阪神・淡路大震災で全壊した。

 それでも「広島でのあの日を思うと、どんなことでも踏ん張ってこられた」。

   *   *

 石橋さんは6年前の2016年、初めて人前で原爆の体験を語った。長く心に秘めていたのは、日々の暮らしに精いっぱいだったからだ。

 それからは、依頼があれば語り手になってきた。ただ、90歳を超えて体は思うように動かない。「もう語ることをやめようか」。そんな思いに駆られていたとき、一つの依頼が舞い込んだ。

 ■対面ついにかなった

 「高齢者に寄り添って、話を聞きたい」

 小林聖心女子学院高校3年の稲山さん(18)=尼崎市=が「傾聴活動」に関心を寄せるようになったのは、今年の春ごろだ。3月の修学旅行で長崎の被爆体験者から話を聞き、「77年前にあった悲惨な出来事は想像がつかない」とショックを受けた。

 曾祖父は太平洋戦争中、フィリピン海沖で戦死し、遺骨も見つかっていないと両親から聞かされた。幼い頃から家族と戦争について学び、広島や沖縄の平和資料館にも足を運んできた。

 修学旅行後、もっと原爆被害のことを知りたいと思って尼崎市の社会福祉協議会に相談すると、今年6月に石橋さんからパソコン越しに体験を聞くことができた。

 稲山さんは言う。「『何が起きたのか分からず、このまま死ぬのか』と恐怖を振り返った言葉が、強く印象に残った」。多くの人に関心を持ってもらいたいと、小学生たちに伝える機会も得て、写真や自身の思いを添えながら説明する活動も始めるようになった。

   *   *

 今月5日には、尼崎市内のデイサービス施設で稲山さんは石橋さんと初対面し、被爆の体験を直接聞く。ロシアによるウクライナ侵攻が激しくなり、戦争が身近に感じられるようになった今こそ、戦争を「伝えたい」「記憶を受け継ぎたい」という2人の思いは強くなった。

 「微々たる力やけど、ひ孫や子どもたちが核兵器の恐怖に脅かされることがないように、伝えないかん」と石橋さんが話す。稲山さんは「戦争を知る人の生の声を聞き(ウクライナから)避難してきた人たちにも何かできないか、行動に移せないかを考えていきたい」と力を込めた。

→【尼崎市のページ】(https://www.kobe-np.co.jp/news/amagasaki/)

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