エッセー・評論

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中真生教授 “ママチャリ”でパパとお出かけ。親として子どもに寄り添うのに、性別は関係ない=神戸市内(撮影・吉田敦史)
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中真生教授

“ママチャリ”でパパとお出かけ。親として子どもに寄り添うのに、性別は関係ない=神戸市内(撮影・吉田敦史)

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中真生教授 “ママチャリ”でパパとお出かけ。親として子どもに寄り添うのに、性別は関係ない=神戸市内(撮影・吉田敦史)

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“ママチャリ”でパパとお出かけ。親として子どもに寄り添うのに、性別は関係ない=神戸市内(撮影・吉田敦史)

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 たとえば、泣きながら必死にお母さんの方に手を伸ばす子を見て、「子どもにはやっぱりお母さんが一番だね」と言ったり、言われたり、思ったりしたことはないだろうか。でもなぜお母さんが一番なのだろうか。その子を産んだからだろうか。あるいは子どもの状態や要求によく気づき、細やかに応えられるからだろうか。もしくは、一番多くの時間、子どもと一緒にいるからだろうか。おそらくその全部がなんとなく混ざり合って、特に理由を考えることもなく、お母さんが一番のはずだ、と思ってしまうのだろう。だって周りを見ても、多くの場合そうなっているから、きっと、やっぱりそうなんだと。

 たしかに産むことは今のところ女性にしかできないけれど、あとの二つ-応えることとそばにいることは、産んだ人でなくても、女性でなくてもできるはずだ。お父さんでも、養父母、祖父母、その他の人でも。実際、父親や養親、祖父母、その他の人が、母親をしのいで、子どもにとっての一番の親(大人)であることも珍しくないだろう。

 それなのに、お母さんが「産んだ」という事実は、有無を言わせぬ力をもって、人々を、産んだ人とそうでない人に分け、「序列」付けし、周囲や本人たちの親の見方を縛ってしまうところがある。そのことは母親を、親の中では子どもに一番近い、その意味での「優位」に置くとしても、その反面、母親を父親よりも、親の役割に強く縛り付けてしまいがちである。

■産むことや性差、血縁を超えて  

 子育てだけでなく、子どもをもつかもたないかという選択あるいは葛藤から、不妊や中絶など、生殖にまつわる多くのことが、女性の方により強く結びつけて考えられやすい。そこでも、妊娠出産するのは女性だからということが、その結びつきを正当化するのに使われる。でも、たとえば不妊の原因の半分近くは男性にもあることが分かってきている。それでも、不妊であることに悩み、不妊治療により多くの時間と体力と気力を使うのは、いまだに女性の方である。

 それなら、産むことを思い切って、ほかのことから切り離して考えてみてはどうだろうか。産んだことと育てることは別、産んだことと、その子どもにとって一番の親であることは別、また、産む機能があることと実際に産むかどうかは別…などというふうに。

 そうしたら、たとえば予期せぬ妊娠をした場合に、中絶する代わりに子どもを産んで養親に託したり、孤独な子育てで追い詰められた親が、子を虐待してしまう前に里親や施設に預けたりすることが、子どもも自身も共に助けるための、手の届く選択肢のひとつになりうる。あるいは子どもの成長を助け、見守ることが何よりの幸せという父親がもっと出てくるだろうし、現にそうである父親に目がいくようになる。また、子どもはいらない、他のことに自分の人生をささげたいという女性、産むことは難しくても、育てることに携わりたいから養子を迎えるという女性やカップルが増えることだろう。

■身体を通して「親」となる

 妊娠や出産は、一つの身体の出来事である。おなかが徐々に膨らんだり、出産にこの上ない痛みが伴ったり、はたからも分かりやすい、特別な出来事である。とはいえ、それは子どもとの生活のほんのスタート地点にすぎない。子どもが生まれると、親たちの生活は文字通り一変する。赤ちゃんが生活の中心を占め、子どもの存在を軸に、親の身のこなし方やふるまいが、一つ一つ組み変えられていく。たとえば、泣く子を片手に抱きながら、もう一方の手で、家事をこなせるようになったり、子どもが寝るサイクルに合わせて、緊急性の高い家事や仕事から、細切れの時間で片づけていけるようになったり。子どもへの対応も、あやし方、寝かしつけ方、あるいは反抗する子どもへの向き合い方など、何度も繰り返す中で、より適切な、より子どもの気持ちに寄り添った仕方を身につけていく。

 このように、子どもを育てる中でも、妊娠出産に比べ、地味で目立たないけれど、やはり身体の出来事は生じている。しかも、こちらは日々少しずつ日数をかけて身体に染み込んでいくものであるから、その人の存在の仕方にまで影響を与えずにはいられない。身のこなし方や、子どもへの対応の仕方が、子ども中心に、また子どもの気持ちに沿うように組み変わるのに比例して、その人の存在にも子どもが大きく食い込み、もはや子どもを除いたら自分が何者なのか分からないほどになっていることも多いだろう。たとえば、子どもに恥ずかしくないように、子どもに背中を見せられるように生きたいというのが、普段意識しなくてもその人の存在の根底を成していたりする。

 このような身体の経験に注目するとき、「親」というものが、子どもと関わる身体のふるまいの変容を通じて、その人の存在をも巻き込むかたちで形成されていくさまが見て取れるのではないだろうか。身体と切り離しがたく形成される「親」というものが。しかもそのときの身体は、単に物理的な身体ではなく、その人のあり方と一体になった身体である。そこでは、産んだ母親がとくだん優位な位置を占めるわけではない。誰もが、子どもとの日々の触れ合い、ぶつかり合いの中で、より濃く「親」になったり、あるいは育児に疲れたときに「親」の程度をいっとき緩めたり、また子どもの成長とともに徐々にそれを薄めたりしうる…そんな「親」のあり方が考えられるのではないだろうか。

【なか・まお】1972年東京都生まれ。東京大学大学院修了。専門は現代哲学・倫理学。著書に「生殖する人間の哲学-『母性』と血縁を問いなおす」(近刊)。2011年、神戸大学に着任。

<ブックレビュー>

◆「父親になる、父親をする-家族心理学の視点から」 柏木惠子著(岩波ブックレット)

 母親だから、父親だからと、性別によって、子育ての能力や子どもへの共感力が異なるわけではない。例えば、通常とは異なり、子育ての第一の責任を担っている父親は、同様の母親と同じようなふるまい方を実は習得していることを、研究成果を挙げつつ明らかにする。

◆「<ハイブリッドな親子>の社会学-血縁・家族へのこだわりを解きほぐす」 野辺陽子、松木洋人ほか著(青弓社)

 本書は、出産・子育てに生みの親以外の人(養親やドナーや保育者)が関わる親子を、〈ハイブリッドな親子〉と呼ぶ。特別養子縁組、里親、児童養護施設、代理出産などを扱いながら、著者たちは、親子を血縁や法律上の親子に閉じることなく、また家族を無条件に肯定する「家族主義」からも自由になるよう促す。

<P.S.>生殖を一つの切り口に

 現在は、不妊や中絶、子育てなどを含んだ、広い意味での「生殖」をめぐる哲学・倫理学を、ジェンダー・身体に注目して研究しています。社会学や心理学とも近いテーマですが、なぜこれが哲学・倫理学といえるのでしょうか?

 私自身も模索中ではありますが、一つには、生殖について(・・・・)研究するのではなく、生殖を一つの切り口に、人間とは何かを考えようとするからだと考えています。生む生まないという人々の間の差異にも慎重に目を向けながら…。

 詳しくは、来月出版される拙著、「生殖する人間の哲学-『母性』と血縁を問いなおす」(勁草書房)をご覧ください。

2021/7/17
 

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