21世紀、わたしたちは前例のないグローバル社会に生きている。人々の実り豊かな文化交流も、国際政治・世界経済の極度の複雑化も、感染症の急速な広がりもその現れだ。新しい局面を迎える世界のなかで、人間はいかに振る舞えばよいのか。
実はすでに約200年前、異文化交流の視点から同じような問いに挑み、希望と幻滅を味わったドイツ人がいた。齢(よわい)70代の老詩人ゲーテである。キーワードは「世界文学」だった。
「いま、国民文学にはあまり意味がありません。世界文学の時代が来ているのです。だから誰もがこの時代を促進するよう働きかけなければいけません」。とはいえ実際のところゲーテは世界文学について体系的に論じているわけではない。書簡や発言録での用例が主で、多様な解釈が可能だ。彼がいう世界文学の理念とは何だったのか。残された断片を手がかりに多くの学者が考察を重ねている。
世界文学といえば、本棚にずっしり鎮座する世界文学全集の類いを思い起こすかもしれない。しかしゲーテは世界文学にむしろ「精神の自由な交易」の意味を見いだした。各国の文学者たちが実際に刺激を与え合って、国境を越え、共同で創造的な活動を行うことが大事なのだ。その土台として、ゲーテは翻訳の重要性をくりかえし説いた。また外国の雑誌や新聞を好んで手にとり紹介した。
自国の文学を一番理解できるのは自国民だとはかぎらない。むしろ適度な距離をもつ外国人のほうが真の価値を見いだせることもある。こうした隣人同士の交流によって一国のうちに閉じこもった狭い見方が補正され、人類共通の普遍性とは何かが次第に明らかになっていくだろう。
■名詞を動詞的に捉えた
いわばゲーテは世界文学という名詞を動詞的に捉えたのだ。しかもそれは、さまざまな世界観が互恵的、生産的、重層的に関係してやまない様子を指す動詞である。文学論だけでなく、彼は物事の固定化を嫌った人で、運動したり変容したり新しいものを創造したりする現象に興味をもった。
このことはゲーテの自然科学思想にも見て取れる。彼は従来の博物学を刷新して形態学という学問領域を立ち上げたが、これは個体と種のメタモルフォーゼ(変態)に着目する「うごくかたち」の学こそ必要だと考えてのことだった。形態学とならんで有名な色彩論においても、同じ色がさまざまな条件化で異なって見えることに注目し、見る人と見られる世界との可変的な関係のなかで色彩を捉えなおした。このようなまなざしのもとでは、形や色は固定的な見方から自由になり、生き生きとした運動性と創造性を伴って立ち現れる。法則の枠内で新しい形や色が常に生まれ続けるのだ。
さて、それではこうした思考法をもつ詩人は、世界文学の理念をどのように実践しようとしたのか。ゲーテ本人は「ヨーロッパ文学」を「世界文学」と言い換えることもあり、まずもってヨーロッパ諸国間での文学的交流を思い描いていたようである。しかし彼は他方、新大陸アメリカにも、あるいはペルシアや中国など東洋の文芸にも大きな関心を抱き、それらを貪欲に文学創作の糧にしていた。そうした際の手さばきが面白い。昨年、刊行200周年を迎えた『西東詩集』がよい例だ。
ここでいう「西」はゲーテの世界であり「東」は中世ペルシアの詩人ハーフィズの世界である。60代になってハーフィズを読んだゲーテは、知恵と酩酊(めいてい)を詠(うた)い、ハーテムとズライカの恋を詠う東洋の名詩に深く感じ入った。ちょうど同じ頃、ゲーテはフランクフルトの若き才女マリアンネと惹(ひ)かれ合っていた。ハーフィズの詩集を念頭においた2人の文通は類まれな相聞歌となり、後に『西東詩集』の中核をなすにいたる。
そうした詩の多くで、近代ドイツは中世ペルシアに重ねられ、ゲーテはハーテムに、マリアンネはズライカに重ねられている。二つの世界は唱和して、それぞれの姿を失わないまま互いに互いをうつしだし、新たな世界を生みだしていく。詩集を代表する「銀杏(イチョウ)」という小詩を、あの独特な葉の形を思い浮かべながら読んでみよう。
「東から/私の庭にゆだねられたこの樹の葉は/知者のこころに響くような/ひそかな意味を味わわせる。/これはひとつの生ける葉が/みずからのうちで分かれたものなのか/それとも互いに相手を見つけたふたつが/ひとつに見えているものなのか。/こうした問いに答えようとして/私はほんとうの意味を見つけた気がした。/君はわたしの歌に感じないかい/私がひとつであってふたつの重なりでもあることを」
『西東詩集』がゲーテ的な世界文学の典型かどうかは研究者のあいだで意見が割れる。もちろんハーフィズとゲーテが直接やりとりを交わしたわけではない。それでも、わたし自身はここにゲーテの理念の一つの具体化を見てよいと思う。時空間の隔たりをこえて文化的な他者から得た霊感が、これほど見事な結晶を生んだ例も少ない。ただし出版当時『西東詩集』の評判は芳しくなかった。自己とは単数でもあり複数の重なりでもあるという「銀杏」のイメージは、時代に共有されなかった。
同じように、世界文学についてもゲーテはたびたび理念実現の難しさを口にした。交通網や情報網が張り巡らされる一方、近代という時代は逆説的に世界文学の理念から遠ざかっていくように見えた。ゲーテの目から見れば、精神の生産的な交流は蔑(ないがし)ろにされるばかりだった。最晩年の文章には世の趨勢(すうせい)に背を向けた詩人の嘆き節が散見される。「自国から受け取った以上の何かを、ひろい世界が与えてくれるわけではない…真摯(しんし)な人々は世の片隅に静かな教会をつくり押しつぶされそうになりながら、毅然(きぜん)として日々の流れをやりすごすしかないのだ」。同意しがたい時代から身を守るため、老いたゲーテは「極めて純粋で極めて厳格なエゴイズム」の必要性を説くようになる。
■巨大な同時代的課題と格闘
ひろい世界へと外向きに開かれていくはずだった世界文学の理念は、こうして内向きに閉じられてしまうかにも思える。この時代をどう生きればよいのか、ゲーテのテキストに答えはない。世界文学に関して見つかるのは、期待の慎重な表明、実践のさまざまな試行錯誤、そして諦念の苦々しい告白だけである。むしろ、開放と閉鎖の両極のあいだで悩み揺れるゲーテの姿そのものが、世界文学の理念が見せうる実際の相貌なのかもしれない。
グローバル化した現代世界は、世界文学に対するゲーテの希望と幻滅をなぞっているかのように見える。移動や通信の可能性は爆発的に高まった。さまざまな国際交流には建設的な明るい展望もないわけではない。しかし他方、巨大で激しい世界の流れに翻弄(ほんろう)される現代人は、他者との創造的な「精神の交易」を営むどころか、従来の世界観を守る防波堤をしばしば求めてやまない。開放と閉鎖のカオスは混迷を深めるばかりだ。
しかしそうであればこそ、老いた詩人が巨大な同時代的課題と格闘した記録は、わたしたちの思考の出発点になる。そのとき机上の200年前の言葉は、今日の世界に向き合う人の手のなかで、生きた血を通わせることになるだろう。世界文学の理念は、いま、最も新しく最も身近な課題なのだ。
【ひさやま・ゆうほ】1982年京都市出身。京都大卒、独・ダルムシュタット工科大学修了(Ph.D.)。ダルムシュタット哲学実践研究所研究員などを経て現職。
〈ブックレビュー〉
◆『ゲーテとの対話』全3巻 エッカーマン著(岩波文庫)
ゲーテに仕えた著者が日々のやりとりを書き留めた記録。世界文学への言及をはじめ、文学創作から時事問題まで話題は多岐にわたるが、それぞれにゲーテ晩年の思想が滲(にじ)み出ていて親しみやすい。
◆「世界文学とは何か?」 デイヴィッド・ダムロッシュ著(国書刊行会)
著者はアメリカの比較文学者。世界文学をめぐって21世紀の人文学が展開しはじめた議論を、豊富な事例を挙げながら紹介している。デジタル人文学の時代における世界文学の可能性を考えるためにはフランコ・モレッティ『遠読-〈世界文学システム〉への挑戦』(みすず書房)も刺激的。
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