「景気が悪くなると、哲学をやる学生が増える」。こんな何とも不可思議な話を耳にすることがある。不景気なので手に職をつけようと実学志向になるのは分かるが、およそ実学とは遠そうな学問の代表格「哲学」に引きつけられるのはなぜなのか。
おそらく、つつがなく物事が進んでいるときには考えない、あるいは気にさえしないようなことこそが、哲学の主題だからだろう。生活の見通しが立ちにくいときほど、「幸福とは何か」「善(よ)く生きるとはどういうことか」といった生の根本にかかわる問いがおのずとわきあがる。心についての哲学も同じだ。心を巡る私たちの素朴な思い込みが揺らぐとき、哲学がはじまる。
心があるというのは、感覚や思考、情動をもつ意識主体として存在することである。そして、自分以外の誰かの意識内容を外側からじかに見てとることはできない。この心の私秘性は、一人一人を一個体として成立せしめる「祝福」だが、他者と真に理解し合うことを妨げる「呪い」でもある。
誰にも気づかれぬまま、ひっそりと快苦に彩られた生を送る存在者を想像することは可能だ。このバレーボールにも心が宿っており、海に放り出されたときには悲嘆にくれたのではないか-などと。こうした想像は、科学が浸透した現代社会では物笑いの種にしかならないと思われるかもしれないが、そうではない。むしろ最先端の科学技術こそが、「心あるもの」にかかわる私たちの常識を揺り動かすのだ。
■脳計測で探る隠れた患者の意識
重度の脳損傷を負うと、自発呼吸ができて咳(せき)をするなどの反射反応があり、覚醒と睡眠のサイクルがあって目も開けるが、意味のある行動はできず、呼び掛けにも応答しない状態に陥ることがある。これが植物状態といわれ、そう診断された患者は意識を失ったとみなされる。
だが、近年の脳計測装置の飛躍的な進歩に伴い、植物状態にみえる患者の中には、意識を保ち続けている人がいると分かった。神経科学者エイドリアン・オーウェンを中心とする研究チームが、植物状態と診断された患者にヒチコックの短編映画を見せて、その間の脳活動を計測すると、映画の筋を理解していなければ生じなさそうな神経活動が記録されたのだ。
ところで、長期的な植物状態にある患者に寄り添う家族が「この人は私の声が聞こえている」と信じることがあるらしい。これまでは共感可能だが不合理な「思い込み」にすぎないとされていたが、脳計測技術の進歩によって「ありうること」として浮かび上がり、「この人には意識があるのか」という問いが立ち上がるのである。
■人工脳が突き付ける新たな問い
実は私の脳は培養槽の中に浮かび、これまで経験したことは長い夢にすぎない-。こうしたSF的な状況を空想しながら心について語るのは、哲学者の十八番だった。しかし、最先端の生命科学技術はこの想像を現実にしつつある。
幹細胞を用いて小型の脳を培養する技術は既に確立されている。それによって試験管内で作られた脳は「脳オルガノイド」と呼ばれ、神経関連疾患の機序解明のためには極めて有用と考えられている。
この技術は発展途上のため、現在はせいぜいエンドウマメくらいの大きさまでしか育てられない。だが、ヒト脳オルガノイドをネズミやサルなどの動物の脳に移植、成熟させる手法が開発されるなど、研究は日進月歩の勢いで進められている。将来的には、私たちとそう変わらないような脳を培養することも可能になるかもしれない。
さて、脳オルガノイドの写真を眺めていると、ふと妙な気分になることがある。この小さな脳には意識があるのだろうか? まだないのだとすれば、いつもち始めるのだろうか?-と。脳を巡る科学技術だけの問題ではない。近年の人工知能(AI)技術の飛躍的な発展も「いつAIは心を宿すのか」という問いを突き付けてくる。
「誰に/何に心があるのか」という古典的な問いが、高度に発展した科学技術によって新たな装いを与えられ、21世紀を生きる私たちの前に立ち現れる。この問いに背を向けるわけにはいかない。植物状態の患者、培養槽に浮かぶ脳、そしてAIを備えたロボット。彼らに意識があるのなら、私たちの彼らへの態度は問い直されねばならないからだ。
心の哲学では、すべてのものに意識があるとする汎心(はんしん)論や、生物だけが意識をもつとする生物学的自然主義など、さまざまな意識理論が提案され練り上げられてきた。こうした理論を手がかりに、心の所在について考え直すときがきている。
【にいかわ・たくや】1986年札幌市出身。北海道大大学院文学研究科修了。専門は分析哲学(特に心の哲学)。日本学術振興会海外特別研究員などを経て、2020年4月より現職。
<ブックレビュー>
◆「生存する意識」 エイドリアン・オーウェン著、柴田裕之訳(みすず書房)
神経科学者であるオーウェンは、植物状態と診断された患者の意識の有無を調べる手法を開発した。臨床と理論のはざまで科学研究がどう進歩していくのか、彼自身の個人的なエピソードを交えながら彩り豊かに描き出される。
◆「教養の書」 戸田山和久著(筑摩書房)
研究者にならないのに人文学なんて学ぶ必要があるの? 教養? そんなもの何の役にたつの? こうした疑問に対し、教養とは何か、なぜそれが大切なのか、どうすれば身に付くのか、を3点セットで分かりやすく説明してくれる名著。
<P.S.>“どこでも哲学”
本年度、神戸大に着任しました。生まれも育ちも北海道で、神戸に住むのは初めてです。海も山もあり、街に根付いた商店街も、おしゃれで風格のある繁華街もある、本当によい街ですね。散歩しながらの哲学がはかどります。ところで、神戸には老舗のバーが多いと聞きました。カクテルについて語ることさえも哲学でありうるのですから、私がどこかのバーで昼間からウイスキーを飲んでいても、現象学研究の一環であり、サボっているわけではないのです。冗談はさておき、気軽に飲み歩ける日が待ち遠しいですね。
2021/1/23白鳥義彦教授(社会学) 日本の社会と大学2021/9/18
田中真一教授(言語学・音声学) 「見えない」秩序を見いだす喜び2021/8/21
中真生教授(哲学・倫理学) 「産むこと」は特別なのか?2021/7/17
奥村沙矢香准教授(イギリス文学) 女性と社会-100年越しのメッセージ2021/6/19
平井晶子教授(家族社会学・歴史人口学) 家族を通して他者を知り、自分に出会う2021/5/22
柳澤邦昭講師(社会心理学) こころと社会2021/4/24
村井恭子准教授(中国前近代史) 中国史の眺め方2021/3/20
中畑寛之教授(フランス文学) 訴え続ける「文学」への信2021/2/20
新川拓哉講師(分析哲学) 誰が/何が心をもっているのか?2021/1/23
有澤知世助教(日本近世文学) 爛熟した文芸に潜む不穏な“予感”2020/12/19
南コニー助教(フランス現代思想) 共感力から民衆法廷へ2020/11/21
齋藤公太講師(日本思想史) 移りゆく「日本人」のアイデンティティー2020/10/24
樋口大祐教授(日本語文学) コンタクト・ゾーンとしての海港都市、その行方2020/9/26
梶尾文武准教授(国文学) 「日常」が終わる前に2020/8/21
酒井朋子准教授(経験社会学) 紛争体験と笑い2020/7/16
大橋完太郎准教授(芸術学)「廃墟」から考える2020/6/18