私が専門とする日本古代史には「古事記」「日本書紀」(以下、記紀と略す)という、奈良時代のはじめに完成した歴史書がある。いずれにも江戸時代にさかのぼる研究の歴史があるのだが、その評価は現在、かならずしも高くない。来る2020年は「日本書紀」が完成して1300年を迎える。この機会に、記紀のような歴史書から古代の歴史を探ることがどのような意義をもつのか、考えてみることにも意味があるだろう。
記紀は神々による天地創成から歴代天皇の治世の歴史を記す(「古事記」は初代神武から第33代推古まで、「日本書紀」は第41代持統まで)。しかし時代をさかのぼるほどに不自然な記事や荒唐無稽(こうとうむけい)な物語が多くなる。
このことは古くから指摘されてきたが、戦後の研究によって実在が確実な天皇の治世についても、後から書き換えられた記事の多いことがわかってきた。現在では、記紀は天皇の統治を正当化するために造作された歴史書で、そこから史実を見いだすのは難しいとする評価が定着している。代わって外国の歴史書や発掘調査で出土した刀剣の銘文、木簡などから、断片的であってもより客観的で確実な情報にもとづいて考える傾向が主流を占めるようになった。
■書き換えの過程を明らかに
しかし考えてみれば、この書き換えも歴史の中で行われたことなのだから、その過程を明らかにすることは歴史学の重要な課題であるはずである。文字を記す行為自体、何らかの目的なしにはあり得ない。記された歴史の中に無垢(むく)の真実など存在しないことは確認しておく必要があるだろう。
多くの場合、造作は根も葉もないところからなされるのではなく、何らかの史実が利用されるものだ。記紀やそのほかの歴史書に記された神話や伝承のどこまでが造作で、どの部分に事実が埋もれているのか。確実に事実を見いだせる保証はないにしても、こうした検証がなされないまま、これらの歴史書を否定するのは正当とはいえまい。史書を読み解くための方法論をあらためて鍛えていくことが、現在の大きな課題である。
具体的な素材を挙げてみよう。たとえば飛鳥時代以前、5、6世紀の天皇(倭王(わおう))をはじめとする王族たちが住んだ宮がどのあたりにあり、どのような使われ方をしていたのか。王宮は陵墓と共に日本古代の権力の性格を知るための重要な手がかりだが、記紀にみえる王宮名は7世紀後半にまとめて造作されたもので、信頼できないことが明らかにされている。
では王宮を考える手がかりは残されていないのか。そんなことはない。実は王族たちの名前に奈良や大阪の地名が含まれる事例があり、それらはその王族の居地、つまり王宮をさすという説がある。
それをもとに5、6世紀の王名をあらためて調べてみた。歴代天皇の中で、実在した可能性が高いとされる第15代応神天皇の子の世代以降、聖徳太子(厩戸王(うまやとおう))の子の世代までで、確認できる王族は約200人。そのうち幼名や通称を除いてもっとも多いのが奈良、大阪、さらに京都の地名にちなむ名で、その数は50例以上。王名にはその養育にあたった氏族の名をつけるのが通例との説もあるが、そもそも氏の制度は6世紀以降に成立し、確実に氏族名にちなむ王名もこの段階ではわずかである。5、6世紀に一定の政治的地位に到達することができた王族は、彼らが拠点とする王宮の名で呼ばれるのが原則だったといえる。
興味深いことに、王名から確認できる王宮は、従来想定されてきたよりも広範囲に分布する。記紀にみえるこの段階の天皇の宮は、一部の例外を除き奈良盆地東南部に集中するのだが、王族の拠点はそれを超えて広範囲に展開する。
ただし王宮は当初、谷の中や丘陵部に造られ、安定して平坦(へいたん)な場所に置かれるようになるのは6世紀前半以降である。百舌鳥(もず)・古市古墳群に代表される巨大な前方後円墳のイメージとは異なり、5世紀の王宮はわざわざ狭い場所が選ばれているのである。こうした立地が示すのは、この段階の王宮にとってもっとも重要なのは防御機能であり、見た目の壮大さは二の次だったということである。このことは、6世紀前半までの王族たちが、かならずしも圧倒的な支配力を維持していたわけではなかったことを示すだろう。
■時代と共に変わる史書の解釈
こうした仮説の下、記紀の伝承を読み直してみると、王宮のありようと意外なほど共通点があることに気づく。記紀は天皇の地位が同じ血筋で継承されたことを記すが、一方で王族同士の容赦ない抗争・殺戮(さつりく)を描く。それらはやみくもな武力対立ではなく、仁徳(にんとく)天皇の系列に属する王族と、允恭(いんぎょう)天皇の系列の王族という、二つの王統の対立に分けることができる。
中国・南朝の歴史書の一つ「宋書(そうしょ)」は、5世紀に歴代の5人の倭王(倭の五王)が使者を派遣してきたことについて記す。ただそのうち、2人目の珍と3人目の済の続柄について「宋書」は沈黙を守る。「宋書」の編者は、倭王の血縁関係について信頼できる情報をもっていなかった。このことは記紀にみる二つの王統間の対立伝承とみごとに対応する。
「宋書」はさらに、宋の皇帝から倭王とその臣下たちに官爵が授与されたことを記すが、それらはほぼ同格で、大きな格差はみられない。記紀は奈良の葛城や岡山の豪族が王族と遜色ない地位を保ち、倭王と対立する伝承を記す。この状況もまた、「宋書」とよく一致するといえる。
巨大な前方後円墳の存在が示すように、5世紀までの倭王は強大な権力をもっていた。しかしそれはかなり不安定で、かつ唯一絶対の存在でもなかった。この段階の倭の統治体制は倭王と他の王族たち、また有力な豪族による連合体とみる方が実態に近いのだろう。倭王の権力がほかを圧し、専制的な君主が登場するには、なおしばらくの時間を要したのである。
記紀などの史書の価値は論じ尽くされ、新たな解釈の入る余地などなさそうにみえる。しかし問題を問題として認識する視角は、時代と共に変わる。それによって、これまでは意識されることのなかった事柄が、新たに問題とされるようになることもあるだろう。
そうした視角は私たち自身のものであるが、同時に私たちが生きている現代の視角によって規定されている部分もある。歴史を解釈する「私」と、「私」を規定する時間と空間-この関係を考えながら、記された歴史から何を読み取るのか。歴史を学ぶことは、現在から遊離して過去に没入したり、逆に過去の一部を歴史的文脈から切り取ってもてあそんだりすることではない。歴史学は、私たちが今を生きることと切り結ぶ、緊張に満ちた学問なのである。
【ふるいち・あきら】1970年岡山県出身。岡山大文学部卒、大阪市立大大学院文学研究科後期博士課程退学。花園大准教授などを経て現職。
〈ブックレビュー〉
◆「歴史を逆なでに読む」 カルロ・ギンズブルグ著(みすず書房)
現代を代表する歴史家が、ギリシャ・ローマから現代のホロコーストまでを幅広く対象として、資料に基づき過去を解明することの意味を語る。資料はすべて作られたものとする懐疑主義を否定し、資料のもつ「ゆがみ」を明らかにしつつ事実に向き合うべきという提起は、現代における歴史学の存在意義を示している。
◆「国家形成期の王宮と地域社会-記紀・風土記の再解釈-」 古市晃著(塙書房)
日本列島に国家が作られることの意味を問うとき、それが地域社会に生きた人びとを含み込む射程をもつことを念頭に置きながら、一つには王宮、一つには記紀や風土記の伝承を手がかりとして解明を試みた。「播磨国風土記」が現存する兵庫県域は、まさに研究の宝庫であることを実感している。
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