■名画のはらむ新解釈
日本では、美術といえば、感性や好き嫌いでながめるものだと思われがちだが、美術は文字と同じく知性を動員して見て考えるべきものである。西洋では古来、文化の中心とみなされてきた。そのため多くの国では、美術をどう見るかという美術史が義務教育に組み込まれているのだ。
私はイタリアのバロック美術を専門としており、主にその先駆者の画家カラヴァッジョを研究してきた。この画家が1600年にローマで発表したデビュー作が「聖マタイの召命」。劇的な明暗効果や現実的な描写によって、バロック美術の幕開けを告げた。しかし、この名画にはまだわからないことがある。肝心の主人公がどこにいるかで意見が分かれているのだ。これを「マタイ問題」という。最近、私はこの問題について1冊の新書を書いたところである。
ある日キリストは収税所に入って行き、そこで働いていた徴税人レビに、「私についてきなさい」と言った。レビはすべてを捨てて立ち上がってキリストに従い、後に福音書を執筆する使徒マタイとなる。ユダヤでは徴税人というのは罪人と同義であり、聖書では何度も否定的な意味で言及されている。
■絵の主人公マタイは どの人物か
この絵では、暗い部屋に同時代の衣装をつけた男たちが座り、画面右から入ってきたキリストとペテロを見つめる。キリストがいなければ、場末の賭場か居酒屋を舞台にした風俗画にしか見えない。
召された主人公マタイはどこにいるのだろうか。キリストの呼びかけに対して顔を上げ、自らを指さすような真ん中の髭(ひげ)の男が長らくマタイであると思われてきた。しかし、よく観察すると、この男は自分ではなく、隣にいる若者を指しているように見える。その隣、画面左端でうつむく若者こそがマタイではないかという意見が1980年代から出始め、主にドイツと英語圏で論争になった。
イタリアではいまだに真ん中の髭の男がマタイであるという認識が一般的だが、私はあらゆる理由から、左端のうつむく男がマタイであると考えている。詳細は省くが、その身ぶりや姿勢から、髭の男は商人で、右手で税金を支払ったところであり、若者は彼から受け取った税金を見つめる徴税人であると考えられるのだ。
また、実際に絵のある礼拝堂の入り口に立ってこの絵を見上げると、左端の若者が非常に大きく見え、画面の主人公であることが納得できる。
この問題は、当時のカトリックとプロテスタントとの「自由意志論争」と無関係ではなかった。プロテスタントは、特定の決められた人のみが救われるという予定説を唱え、カトリックは、誰もがその意志と行動によって救われるという自由意志を重視した。そもそも、絵の設置されたサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂はローマのフランス人のための教会であり、作品の背景には、少し前にフランス王アンリ4世が新教徒からカトリックに回心したという事件があり、マタイはアンリ4世を示唆するという解釈もあった。
「召命」という単語は、イタリア語でヴォカツィオーネ、英語でコーリング、ドイツ語でベルーフというが、いずれも神による召命や呼びかけだけでなく、職業や仕事という意味をもつ。その背景には、人間の仕事とは自分で選んで従事するのでなく、神から与えられた使命であるという考えがある。
■見る人に 委ねられた可能性
マックス・ウェーバーの古典的名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によれば、近代の資本主義の精神を生み出すことになる最も重要な概念は、この天職という考え方にあった。与えられた仕事にひたすら励むことは神の栄光を表して救いを確信することにつながり、各自の職業こそが神の命じたものなのだ。
徴税所に入ってきたキリストは、これから救う者を指さしている。そのとき、特定の人物を指さす髭の男は「この男ですか?」と救われる者を指定し、限定しているようだが、左端の若者はそうではない。この若者は、今はうつむいているが、キリストの声を聞いて立ち上がれば、光は彼の全身に当たり、救いへと導かれるであろう。登場人物の誰もが救われる可能性があるこちらのほうが、カトリック的であって当時のローマの教会にふさわしいと考えられるのだ。
「私が来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と言うキリストは、お金に夢中になっているこの若者を招いているのであり、やがて彼はお金をなげうってキリストとともに出て行くだろう。
こうしたマタイ問題は、近年になって新たな局面を迎えた。2009年、この作品の科学調査が行われたところ、当初はキリストが単独であり、その姿が異なっていたことがわかった。キリストは今よりも決然と立ちはだかり、髭の男よりも左端の若者の方を指していたのだ。それを、どういうわけかカラヴァッジョは、キリストが力なく腕を伸ばす現状のポーズに変更し、その手前に重なるように使徒のペテロを描き加えた。それによって、画家自身が、あえてマタイを特定することを避けたということさえ考えうるのである。
カラヴァッジョは、一見すると真ん中の髭の男がマタイだと思わせ、注意深く観察すればこの男の手の向きから隣の男を指しているとわかるように、2段階の観察を前提としたという可能性も唱えられた。こうして最近、マタイは当初から曖昧であって、見る人に委ねられているという可能性が提起され、私もそう考えるに至った。
つまり、この絵を見る者は画面に描かれた誰にでもマタイを認めてもよいのだ。しかも、そのマタイに自分を重ね合わせて、神の導きを受けているような気持ちになってもよいだろう。誰しもが、この絵のマタイのように、一生に一度は召命を受け、天職を見つけるのではなかろうか。
一見、街の盛り場のような日常的な設定で普通の男が召されているこの絵は、現代の私たちをも覚醒させるような開かれた絵画であったといえよう。
このように、歴史上名高い作品でも、いろいろな見方があり、名画であればあるほど次々に新たな解釈が登場する。美術史学とは、文字資料や他の作品との関連によってそれを考える学問であり、主に文字資料を対象とする人文学の中でも、イメージや視覚資料を駆使する点でユニークであり、可能性と魅力が尽きないのだ。
【みやした・きくろう】1963年名古屋市出身。東京大学文学部卒、同大学院修了。兵庫県立近代美術館などを経て現職。『カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン』でサントリー学芸賞受賞。
〈ブックレビュー〉
◆「一枚の絵で学ぶ美術史カラヴァッジョ《聖マタイの召命》」 宮下規久朗著(ちくまプリマー新書)
ここに書いた内容を、さらにカラヴァッジョの他の作品や、回心や殉教などの主題と関連づけて解釈し、高校生にもわかるように説明した。1枚の絵を読み込むことによって、美術史という学問の奥深さやおもしろさがわかるという美術史学への入門書でもある。
◆「聖と俗 分断と架橋の美術史」 宮下規久朗著(岩波書店)
西洋では宗教改革によって聖と俗が分断されたが、その後も両者は密接につながっていた。バロックの王権表象から現代のウォーホルの芸術、日本のかくれキリシタンの聖画や東北地方の追悼絵馬、三島由紀夫まで、美術史における聖と俗を広く考察した論文集。
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