民主主義は最善の政治制度であるという考えが、現代では一般的だ。ふつう人が議論するのは「どうすれば民主主義が実現するか」や「どのような形の民主主義が望ましいか」で、「そもそも民主主義は正しいのか」はそう問題にならない。この民主主義の源流は古代ギリシアにあることが知られている。民主主義を表す英語「デモクラシー」は「デーモクラティア(民衆による支配)」というギリシア語に由来するものだし、ポリス(都市国家)のアテナイ(アテネの古名)では、民主主義の極致とも言える直接民主制が採用されていた。
しかし、ここで指摘したいことがある。実は、当時のアテナイで活躍した哲学者のプラトンやアリストテレスは、民主制を讃(たた)えるどころかむしろ否定的な態度をとっていたという事実である。例えばアリストテレスは、民主制は堕落した政治体制であって王制こそ理想だと言い、プラトンに至っては哲学者が王となるべきだと主張する。民主主義の祖国でそうした言説が展開されたことの奇妙さを、どう理解すればよいだろう。現代では民主主義を標榜(ひょうぼう)する国家において排外主義や国同士の軋轢(あつれき)が蔓延(まんえん)している。とすれば、かれらからわれわれは何か示唆を得ることができるかもしれない。
■類比関係が存在する 個人と国家
そもそも国制の優劣は何を基準に決められるのだろうか。「どういう国制なら国家の幸福が一番達成されるかだ」というのがアリストテレスの答えである。この考えには二つの背景がある。「人間はポリス的動物である」という人間観と、人生の究極目的である幸福(エウダイモニア)という概念である。「エウダイモニア」とは、束(つか)の間の主観的満足感を指すのではなく、「生き甲斐(がい)のある人生」を意味する。どんな生き方を生き甲斐があるとみなすかは人それぞれだが、生き甲斐のある人生を究極的に目指して生きている点ではみな同じだ、とアリストテレスは考える。
「人間はポリス的動物である」とはこういうことだ。ヒトという動物は、生存のために家族を構成するという特徴を持つ。そして太古の人類は安定した生活のために複数の家族で集落を形成し、役割分担して暮らすようになる。やがて、より高度で充実した生活のために複数の集落が集まって共同体を組織するに至る。この共同体こそが国家(ポリス)である。つまり人間は社会の中で生きる動物であり、国家は家族を祖形とする社会の究極形態であることになる。
以上から導かれるのは「個人と国家の間に類比関係が存在する」という発想である。一人一人が自身の幸福を目指して生きるように「国家の幸福(公益)」があり、その実現を目指して結成された組織が国家であるということになる。ただしここでいう「公益」とは、全体のため個が犠牲になる全体主義を含意するのではなく、あくまで個人の集合体としての国家の福利という意味である。「幸福こそが国家の根本である」という発想は、近代民主主義の基本的特質を「個人の自由」と捉えそれと対比するなら、自由の実現以上に幸福の実現を絶対視するという立場をとっていることになる。
■公益のため判断できる者は誰か
ここでわれわれが注目すべきは「政治の問題が個人における倫理の問題と直結している」という発想である。これは、モラルの崩壊やポストトゥルース(フェイクニュースの氾濫のように、客観的事実より感情や気分が影響力を持つ状況)が国家的な単位で深刻化しつつあるいま、見直されるべき発想ではないだろうか。また「公共の福利を目指す」という国家理念は理想主義的にもみえるが、現に世界中の国名の多くに含まれる「リパブリック(共和国)」はもともと「公益」を意味し、それらの国々は「公共の福利のため結成された共同体です」と宣言していることになる。そこにはアリストテレスの精神が受け継がれている。
こうした国家観のもとでは、どんな政治制度が最善だろうか。かれは明快な基準を提示する。「主権者が何を目指して権力を行使するのか、公益に適(かな)う判断ができるのは誰か」である。つまり、権力者が公共の福利を目指しかつ的確な判断を行える国制が「よい国制」であり、権力者が自分や特定階層だけの利益を考えて行動し、合理的な判断能力を持たない国制は「悪い国制」であることになる。となると、理論上は王制こそ最善の国制であることになる。際立って有能かつ有徳な人(または少数集団)が支配者となり、私欲を排し臣民たちの利益だけを考えて統治すれば、国家の幸福が最もよく達成されるだろうからだ。
しかし、机上の空論よりも肝心なのは「実現可能な意味で最善の国制はどれか」だ。この点で王制(または少数支配制)は深刻な脆(もろ)さを抱えている。それほどまでに有能な支配者が、絶対権力を自分(特定階層)の利益や保身のために行使しはじめた途端、「王」は「独裁者」に一変し、僭主(せんしゅ)制(寡頭制)という最悪の国制に陥ることになる。そうした堕落の可能性がないような完璧な人間などこの世に一体どれだけいるだろうか。そして「権力は腐敗する」という格言にもあるように、絶対権力が概(おおむ)ね腐敗する運命にあることは歴史が証明している。となると、残るのは「多数の人々が公益のために統治する」政体である。アリストテレスはどうやら、理想論としては王制が最善だが、現実問題としてはこうした政体こそ望ましい国制だと考えているようである。
それはなぜか。確かに大衆は一人一人を見れば凡人だが、多数が集まれば全体としては「少数の卓越者」より優れていることが十分あり得るとアリストテレスは考える。この主張の背景には、多くの人々で物事を多面的に捉えた方が真相に迫れるという理解や、大衆は法の影響を直接被(こうむ)る立場にあるので、(家の住人がその住み心地を評価できるように)法を適切に評価できるはずだという考えがある。また通念の大半は、伝統的考えが年月を経て修正・改善され形成されたものだから一定の道理を有している、ともかれは考える。
ただし多数者による政治は、最終的に多数決で物事が決まる。大衆が全体として有能性を潜在的に備えていても、最低限の教育を受け、一定の教養と徳を備えた人々で構成された社会でなければ、大衆は長期的・大局的観点から公益を考慮せず、自分勝手な私益だけを考えて主権を行使することになる。この「多数者が自分の利益だけを目指して権力を行使する」国制を、アリストテレスは「デーモクラティア(民主制)」と呼んでいる。そう、最初に述べた「民主制は悪い国制である」とはこのような意味においてなのだ。アリストテレスの民主制批判は、民主主義そのものの否定ではなく、大衆民主主義の持つ危うさを教える議論として捉え直すことができる。
ところで、われわれの「民主主義」はどうだろうか。それは一人一人に突きつけられた問いだ。
【ちゃたに・なおと】1972年宝塚市出身。北海道大文学部卒、神戸大大学院文化学研究科修了。専門は古代ギリシア哲学、生命倫理学。
〈ブックレビュー〉
◆「ニコマコス倫理学」アリストテレス著(光文社古典新訳文庫)
西洋倫理学の創始者アリストテレスによる、鋭い人間観察に満ちた人間論。倫理と政治の連続性についてもこの書で提示されている。プラトンの著作では、「哲人王政治」を唱えた壮大な国家論である「国家」(岩波文庫)を。イデア論と呼ばれるかれの哲学理論が提示されていると同時に、「透明人間になれたらあなたはどうする」という興味深い思考実験も議論されている。
◆「アリストテレスと目的論-自然・魂・幸福」茶谷直人著(晃洋書房)
このエッセーで触れたように、アリストテレスは人生の究極目的を幸福と捉え、これを倫理学の中核に据えた。実は、「目的」に注目しながら議論を展開するやり方はアリストテレス哲学の一つの特色である。本書ではこの「目的論」をキーワードにかれの思索にアプローチした。
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