エッセー・評論

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奥村沙矢香准教授 ウルフのついのすみかとなったモンクス・ハウスの庭。中央奥に見えるのは隣の教会の尖塔(せんとう)
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奥村沙矢香准教授

ウルフのついのすみかとなったモンクス・ハウスの庭。中央奥に見えるのは隣の教会の尖塔(せんとう)

  • 奥村沙矢香准教授
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奥村沙矢香准教授 ウルフのついのすみかとなったモンクス・ハウスの庭。中央奥に見えるのは隣の教会の尖塔(せんとう)

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ウルフのついのすみかとなったモンクス・ハウスの庭。中央奥に見えるのは隣の教会の尖塔(せんとう)

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 日本で男女雇用機会均等法が施行されて35年。だが、いまだに女性の雇用状況は厳しい。企業の管理職は大半が男性で占められ、出産を機に、周囲の無言のプレッシャーに押されて正規の職を退く女性は後を絶たない。女性の自立とキャリアの存続を守ると期待される選択的夫婦別姓の法案が廃案となるたび、「またか…」という諦めムードが女性たちの間に漂う。

 かつてイギリスにヴァージニア・ウルフという作家がいた。上層中産階級の家に生まれ、批評家の父レズリー・スティーヴンの薫陶を受けて育った少女はやがて、20世紀初頭の知的サークル「ブルームズベリー・グループ」の一員となる。芸術と日常の革新を唱えるメンバーに感化され、自らは女性の解放を説く新しい作家となった。

 しかし当時はヴィクトリア朝の終焉(しゅうえん)間もない頃。多くの女性は高等教育を許されず、「適齢期」には結婚。夫や家族に献身的に尽くす「家庭の天使」となることが求められた。ウルフは古い価値観から自由であろうとしたが、自身も成人に近い齢(よわい)までヴィクトリア朝人として生きてきた身。婦人参政権の獲得に向け、パンクハースト母娘ら活動家が過激で暴力的な行動に走る中、ウルフは文筆活動を通じて、表向きは穏健な、しかしより巧妙な手段に打って出た。

■女性解放説いた巧妙な戦略

 エッセー『自分だけの部屋』は、「女性が作家として自立するためには定収入と鍵のかかる自分の部屋が必要だ」と説き、フェミニズムのバイブルとも称される。だが重要なのは、その語り口である。ウルフは自らの主張をのっけから直情的に披歴したりはしない。「じつはある団体から、『女性と文学』について、人前で話をしてほしいと頼まれて困ったんです。だって、あまりにたくさんのことを考えなくてはならなくて。でも…。そうは言っても…。でも…。」

 冒頭部はまるで、親しい友人に悩み事を打ち明けるかのような調子で始まる。頻繁に繰り出される逆接は、逡巡(しゅんじゅん)する心の表れそのものであり、読者は悩める語り手に対し、まずは同情し、次第に温かな気持ちになる。じつはこの語りは、ヴィクトリア時代のお茶の場における、上層中産階級の女性の作法に則(のっと)ったものである。ささいなたわい無い会話によってその場の人々を和ませ、魅了する。

 ウルフが巧みなのはこの旧弊な作法を、古い価値観を持つ読者を自説へと誘導する戦略として用いた点である。警戒心を解いた読者は、語り手の言葉につい耳を傾けてしまう。親しい「友人」の口から出る本音には衝撃を受けこそすれ、冷酷な拒絶心は生まれない。

 長編小説『灯台へ』には、ヴィクトリア時代の「家庭の天使」ラムジー夫人が登場する。しかしこの「天使」は、ことのほか雄弁である。「不和、分裂、意見の対立、存在の奥底にまで浸透した偏見。うちの子たちったら、なんて早くから争いを始めること!(中略)本当につまらないことばかり言い合って、わざわざ違いを見つけるなんて。そうでなくたって、人は十分違うようにできているのに。」「テーブルの向こうに夫がしかめ面をして座っている。どうしたのよ。知らない。どうでもいいわ。なぜ昔、あんな人のことを好きになったのかしら。」…

 ラムジー夫人の心の呟(つぶや)きに触れるうち、読者は寡黙で神秘的な存在として知られる「家庭の天使」が、じつは自分と寸分違わぬ生身の人間であったことを了解する。

■逆境と闘う自分支える「物語」を

 世間の慣例に与(くみ)するそぶりを見せつつ、内側からその構造の揺るがしを試みる。ウルフのしたたかな戦略はしかし、当時から功を奏したとは言い難い。実際、そのエッセーは宿敵アーノルド・ベネットにただの「妄想」と酷評され、小説は豊かな感性に彩られた非社会的で内向的な文学だと評された。

 作品の社会性が見いだされたのは、1970~80年代のフェミニズム批評登場後のことであった。だが一つ、重要なことがある。それはこうした語りが、他ならぬウルフ自身がヴィクトリア朝的価値観から身を振りほどくための一種の「悪魔祓(ばら)い」として機能していたということである。言い換えるならば、ウルフの作品は何よりもまず、社会的な逆境と闘う自らを精神的に支えるべく編み出された「自分のための物語」だったのだ。

 2020年代現在、ウルフの主要な作品群は初出版から次々と100周年を迎えている。ウルフのフェミニズムの主張が色あせるどころか、いまだに今日性を帯び続けているという事実は、女性を悩ます社会の因習が温存されていることを意味する。そんな中で、自分を見失うことなく世間と闘い続けるためには、まずは一人一人が「自分のための物語」を持たねばならない-そう、ウルフは時を超えて訴えかけているようである。

【おくむら・さやか】京都大学、英国ヨーク大学大学院修了。専門は20世紀イギリス小説。福井県立大学講師を経て、2010年より神戸大学に勤務。

<ブックレビュー>

◆シリーズもっと知りたい名作の世界(6)ダロウェイ夫人 窪田憲子編著(ミネルヴァ書房)

 ウルフ円熟期の小説『ダロウェイ夫人』を軸にしながら、作家の生涯・美学・生きた時代とその文化、そして諸国での作品受容など、多角的な視点からウルフという作家を浮き彫りにしている。入門書としてまず手にとってもらいたい好著。

◆言葉という謎-英米文学・文化のアポリア 御輿哲也ほか編著(大阪教育図書)

 言葉のもつ諸相に注目しつつ、ウルフをはじめとする英米文学の幅広い作品世界を縦横無尽に味わい尽くした論文集。批評の専門用語でいたずらに読者を幻惑することなく、文学テクストの魅力を最大限に焙(あぶ)り出すことを旨としている。

<P.S.>分身との「遊び」に夢中

 ウルフに「出会った」のは、作家になる夢を諦め切れずにいた大学2年生の夏のことでした。自分が作家として試みるつもりでいたことを、ウルフは約70年も前にやり遂げてしまっていました。悔しい気持ちはありましたが、自分の分身とも思える存在に出会えた喜びはそれに勝り、以来、ウルフの作品世界に遊ぶ批評行為に夢中になりました。

 実利主義の世の中は文学研究にも今日性や社会性を求めがちですが、「遊び」という人の根本的かつ普遍的な営みを趣旨とした文学批評は究極の今日的・社会的行為だと信じています。

2021/6/19
 

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