「シェイクスピアのイメージは?」。新入生に尋ねると「むつかしそう」「近寄りがたい」といった言葉がきまって返ってくる。
ウィリアム・シェイクスピアとは、16~17世紀の英国ルネサンス期に『ロミオとジュリエット』や『ヴェニスの商人』『リア王』など40近い戯曲を次々と生み出した劇作家・詩人であり、英米文学…いや世界文学の白眉(はくび)として知られる。日本でいえば秀吉や家康の同時代人で、「そなた」(thou)などという古くさい言葉を使った作家だから、縁遠く感じられても無理からぬところだ。
しかし実のところ、この劇作家は私たちの日常に少なからず入りこんでいる。本屋には、シェイクスピア劇の翻訳や研究書はもちろんのこと、それらを基にした小説やマンガもある。彼の劇の舞台化はごく日常的だし、テレビやネットにも、シェイクスピアのキャラクターが登場するアニメや、名ぜりふの引用・パロディー(例えばロミオとジュリエットが愛をささやくバルコニーの場面をちゃかしたCM)が飛び交う。近年ではこの文豪との仮想恋愛が楽しめるゲームソフトさえあるという。
翻って160年前の日本では、シェイクスピアの名を知る者もその作品を読んだ者もほぼ皆無だった。本格的な「シャーケスピール」(「セクスピヤ」「沙翁」などの表記もあった)移入が始まったのは明治維新以降のこと。圧倒的な文明力を見せつける西洋に危機感を募らせた日本は急激な近代化=西洋化政策をおし進めた。
以来、約1世紀半の間に日本人は貪欲にシェイクスピア文学を吸い上げ、文化の各方面へと広めた。1990年代までに彼は「日本で最も人気のある劇作家」となり、日本も世界有数の「シェイクスピア大国」として多くの上演や翻訳を生み出すようになった。
一般に明治以来の日本人は、西洋文明を「進んだ知の宝庫」としてありがたく享受・模倣してきたといわれる。ではシェイクスピアにはどんな態度で接してきたのか? この点について20世紀はじめに指南した人…いや、猫がいた-夏目漱石『吾輩は猫である』(1905~06年)の語り手である。
〈天の橋立を股倉(またぐら)から覗いてみると又格別の趣が出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。偶(たま)には股倉からハムレットを見て、君こりや駄目だよ位に云ふ者がないと、文界も進歩しないだろう〉
■横領かそれとも共同作業か
文豪シェイクスピアも、その最高傑作『ハムレット』も、いつも真正面からうやうやしくあがめるだけでは実りがない。ちょうど天橋立の「股のぞき」のように大胆に尻を向け、時に逆さまに、時に斜に構えて、自由に眺め、論じねばならない-漱石はそう教えた。この言葉を知ってか知らずか、特に翻案(原作を土台に書き換える)という領域において、多くの日本人がシェイクスピアを「股倉」からのぞき、思い思いの視点から新たな景色を切り取ってきた。
いくつか例を紹介してみよう。「文学のモナ・リザ」の異名をもつ悲劇『ハムレット』は、謎めいた玉虫色の作であるが、日本人はこの作から見たい「色」を見いだしてきた。志賀直哉は、文芸界でもてはやされていた「沙翁悲劇」に反感を抱き、「あの狂言の攻撃をやらう」と短編「クローディアスの日記」(1912年)を執筆する。そして自分が感情移入した敵役の視点から劇を眺めなおし、英米の批評が見落としてきた原作テキストのほころびや主人公の欺瞞(ぎまん)をあぶりだしたのだ。
気高く優しい王子様として偶像視されてきたハムレットを「気障(きざ)な…身勝手な、芝居気の強い奴」と糾弾する志賀の見方は、20世紀に大々的に展開されるアンチ・ハムレット批評(王子の性格の悪さや自己中心性に着目する解釈)に先鞭(せんべん)をつけるものであった。
大岡昇平も第2次大戦での出征と俘虜(ふりょ)体験の後、複雑な心境でこの文豪に向き合う。「日本は戦争では負けたが文学の領域では勝ってみせる」という西洋への競合心を胸に、敬愛するシェイクスピアにペンで斬りつけた。激烈な戦争体験をもつ大岡にとって、劇の主題はあくまで権力や政治といった社会的次元にあった。だからこそ彼はマキャベリストのハムレットを語り手に据え、GHQ占領の経験も生かしながら、策謀や戦争が招く政治悲劇『ハムレット日記』(1955年)を仕上げたのだ。
英文学者・宗片邦義の試みもおもしろい。彼の創作能『ハムレット』(1974~89年)は、原作のもっとも有名なせりふ“To be or not to be, that is the question”を「不遜を承知で」反転させ、二項対立を超えた禅的な視点から主人公の悟り-「生か死か、それはもはや問題ではない(・・・・・・・・・)」-を表現した。
ほかにも多くの日本人が、一方ではこの「劇聖」のすごさをじゅうぶんに認めながら、他方では不敬とも思える大胆さで、彼の作品を自由に切り刻み、変形させて「自分の」作品(小説、上演、映画)へと仕立て直す。それを文学上の乗っ取り、横領行為と見ることもできるし、時空を超えた日本人とシェイクスピアの共同作業とみなすことも可能だ。いずれにせよ、シェイクスピアとのそうした多くの出会いと交流・折衝のつみ重ねが、結果として漱石のいう「文界(の)進歩」をもたらしたことはまちがいない。
■世界中で授かる「死後の生」
むろんこれは日本に限ったことではない。世界中の人々がそれぞれの事情や関心にそってシェイクスピアを受容してきた。自国の貴重な文化財産を守るべく、正統的な原語上演に徹する英国の劇団もあれば、帝国主義の権化としてのシェイクスピアを換骨奪胎することで、過去の支配に異議を唱える旧植民地の翻案もある。土着演劇と衝突させて、そこから活力を得ようとするアジアの舞台もある。
「こんなのはシェイクスピアじゃない!」と憤る人もいるだろうが、そもそもこの劇作家自身が、古今東西のテキストをひろく渉猟し加工する名人だった。だから彼の作品には、古代ギリシャの、中世ヨーロッパの、ルネサンス期イングランドの声や記憶、生がふんだんに織り込まれている。
私たちがそれを受容するとき、テキストに宿るそうした過去の声や生が解き放たれ、今日の感性や想像力とも響き合いながら、シェイクスピア作品は新たな命-ドイツの思想家ベンヤミンの表現を借りるなら「死後の生」-を授かる。古典だからと身構えず「同時代人」シェイクスピアと気楽に付き合ってみてはいかがだろう。
【あしづ・かおり】京都大大学院文学研究科博士課程単位取得退学。日本学術振興会特別研究員、オックスフォード大研究員、大谷大学専任講師、准教授を経て2010年から神戸大学勤務。
〈ブックレビュー〉
◆「シェイクスピアはわれらの同時代人」 ヤン・コット著、蜂谷昭雄・喜志哲雄訳(白水社)
ナチズム、スターリニズム、冷戦構造をくぐり抜けたポーランド出身の著者が、シェイクスピアの現代性や暴力性を読み解く。1960年代のシェイクスピア上演・解釈に大きな影響を与えた批評だが、今でもじゅうぶんに斬新である。
◆「股倉から見る『ハムレット』-日本人とシェイクスピア」 芦津かおり著 (京都大学学術出版会から近日刊行)
日本人がシェイクスピア悲劇『ハムレット』を「股のぞき」により自由に書き換えた例を論じ、異文化受容とはどういうことなのかを考える。本文に記した作家以外にも、小林秀雄、太宰治、久生十蘭、仮名垣魯文、堤春恵らの作品を取り上げる。
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