エッセー・評論

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樋口大祐教授=撮影・斎藤雅志
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樋口大祐教授=撮影・斎藤雅志

樋口大祐教授=撮影・斎藤雅志

樋口大祐教授=撮影・斎藤雅志

 この夏に亡くなった俳優・渡哲也が主演する初期の映画に『紅の流れ星』(1967年)がある。敵対する組のボスを射殺した主人公が、半年間という約束で東京から神戸にやってきた。神戸の密輸組織に飼われながら毎日海辺で昼寝をして時を過ごしている。ある日、東京の宝石商の男が行方不明になり、その婚約者を名乗る女(浅丘ルリ子)が男を探しに来る。彼女と一緒に駆け回るうちに主人公は失った情熱を取り戻すが、かわいがっていた舎弟(杉良太郎)が自分を狙う殺し屋に殺されたことを知り、復讐(ふくしゅう)の果てに女を連れてマニラに密航しようとする。しかし、女の裏切りに遭い警察に射殺されてしまう、という話である。

 女を連れて密航船を目指す男が、「パリに行きたい」という女に対抗し、「マニラもいい所だぜ」と言い募る場面は、2人の永続し得ない関係とともに、海港都市・神戸が階級の異なる2人の出会いを可能にする「コンタクト・ゾーン」であったことを実感させる。

 実は、この映画はその約10年前に、やはり神戸を舞台に作られた石原裕次郎『赤い波止場』(58年)のリメークで、さらにさかのぼれば戦前の名画『望郷』(37年)に突き当たる。罪を犯した男の逃亡先は地中海の海港都市アルジェであったが、日本では神戸に置き換わっているのだ。神戸は、よそで失敗した人間が再生するための「逃れの街」(結局、彼らは過去から脱出できないのだが)として、映画史に記憶されることになったのである。

■逃れの街に移り住んだ文学者たち

 海港都市・神戸の集合的記憶は、12世紀に平清盛が引退後に居を構えた大輪田泊(兵庫津)に始まる。清盛が福原遷都に失敗した後も兵庫津の重要性は増していき、室町時代には日明貿易の、江戸時代には西回り航路の重要拠点であった。19世紀半ばに開港した神戸は、20世紀初頭の湊川の改修により兵庫と連結された。

 第1次大戦の戦争景気の結果、東洋の帝国の海港として、西洋近代勢力、日本の地方出身者、そして植民地出身者の三者の集住地とその接触領域である「盛り場」を擁するハイブリッドな都市空間を形成するようになる。

 その中で過去を背負った人々が神戸に移り住み、文学作品を残した。熊本の旧制高校教師の職を辞したラフカディオ・ハーンは英字新聞「神戸クロニクル」の記者として神戸に移住。日清戦争の軍靴の音が聞こえる街の片隅で、盲目の女の歌う声に震撼(しんかん)され、掌編『門付け』を書いた。関東大震災で東京を焼け出された谷崎潤一郎は阪神間に移住し、マゾヒズムに満ちた『痴人の愛』『卍』などを残した。

 横溝正史は妻子を捨てて岡山から駆け落ちした夫婦の息子として、港に近い貧しい町で育った。外国航路の船員が捨てた探偵小説を読みあさり、後年、『悪魔の手毬唄』で、神戸と田舎を往復して罪を犯す男女を描出した。第2次大戦中、東京の妻子から逃げてきた西東三鬼は、戦後、トアロードにある掃きだめホテルで娼婦や敵性外国人たちと過ごした戦時中の日々を『神戸』『続神戸』に書き残すことになる。

■過去と違う新しい人生始めるため

 アジアからもやってきた。神戸一中出身の田宮虎彦『朝鮮ダリヤ』は、妹に暴行した金持ちに復讐して退学になった朝鮮人の同級生と語り手の「出会い損ね」をつづる。台湾にルーツを持ち、神戸で生まれ育った陳舜臣は日中戦争を背景とする推理小説群の中で、日中のいずれにも同化できない多重所属的な華僑の感情の揺れを描いた。灰谷健次郎『太陽の子』は、戦後神戸に移住した沖縄人家庭の父親が、戦時中のトラウマ(心的外傷)から精神を病んでいく様を、その娘の視点を通して描き出した。

 移民にとって神戸は過去と異なる新しい人生(必ずしも安楽なものではなかったが)を始めるための転換点であり、帝国主義がもたらす分断線を超えて人々が出会い、感情を分有しうるコンタクト・ゾーンを内包していた。上記小説群からは、その屈折した様相を読み取ることができる。

 第2次大戦が終わり、戦前の記憶が薄れ、経済的繁栄を謳歌(おうか)した70~80年代を経て、95年の阪神・淡路大震災以降、神戸港の国際的地位は低下した。神戸への移民の流入は続いており、2019年にはミャンマー難民が神戸での新生活を始めている。

 しかし、コロナの時代、移民・難民と村上春樹が形象化したような裕福な「阪神間少年」たちがリアルに出会い、感情を分有しうるような空間は果たして残るだろうか。海港都市・神戸の未来はそのことにかかっているように思われる。(敬称略)

【ひぐち・だいすけ】1968年西宮市生まれ。東京大学大学院修了。専門は日本語文学。著書に「変貌する清盛-『平家物語』を書きかえる-」。2015年から現職。

〈ブックレビュー〉

◆「ベトナムから遠く離れて」全3巻 小田実著(講談社)

 神戸を思わせる「港都」が舞台。地方新聞の文化部記者で、ベトナム反戦運動の過去を持つシングルマザーの律子と、いとこの女装者・紀彦が視点人物。さまざまな形で「ベトナム」に関わった人々の再会と別れを描いた人間喜劇。

◆「神戸 闇市からの復興」村上しほり著(慶應義塾大学出版会)

 戦災で6割を焼失し、進駐軍のキャンプに空間を占拠された海港都市における、闇市と5大マーケットの生成と消滅の歴史。安保則夫『ミナト神戸 コレラ・ペスト・スラム』を継ぐ、民衆視点からの神戸都市史研究の記念碑的成果。

〈P.S.〉日本社会の在り方構想

 本来の専門は『平家物語』など前近代日本の転形期を扱った歴史文学です。それらの記述における視点の複数性を考えるうち、「港町」が持つ、ナショナルな枠組みに収まらない多重所属的な性格について興味を抱くようになりました。いつか、神戸や横浜が舞台の小説群に関して、コンタクト・ゾーンの視点からの文学史を書きたいと思っています。それは単なる文学研究ではありません。移民・難民ら外国にルーツを持つ人々を主権者として待遇しうるような、日本社会の在り方を構想することとつながっているように思います。

2020/9/26
 

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