かつて中国には「成長した娘は家に置くな(女大不中留)」という言い回しがあった。娘は生家を支える一員にはなり得ない、だからなるべく早く嫁がせろ、ということだ。女のライフコースは生まれた家と嫁いだ家にきれいに分かれていたが、嫁ぎ先を決めるのはもちろん家長の役割で、嫁いでいく本人の意思など問われることもない。少女たちは見も知らぬ家に嫁ぐ時になって初めて家を離れ、嫁として妻として母として、新たな人間関係を築きあげていくことになったのである。
このように「生家」と「婚家」が継ぎ目なく繋(つな)がっていた中国の女の人生に変化がもたらされたのは、「女子教育」の開始だと私は考えている。「女子は才無きがすなわち徳」、自己主張をする女など小賢(こざか)しくて片腹痛い、と考えられていた中国社会に公の女子教育が持ち込まれたのは、清朝末期のことである。学校教育は、少女たちに一種のモラトリアム(猶予期間)を与え、その生き方に不可逆的な変化をもたらした。学校生活という新たな場によって、彼女たちは生家から一歩足を踏み出しながら、まだ婚家に所属してはいないという宙ぶらりんな状態を享受できるようになったからである。
女学生時代とは、「娘」としての抑圧から半歩逃れているだけではなく、「妻」「嫁」あるいは「母」としての責務も免れているという、いままでにないステージであった。さらに学校という空間の中で、同世代の少女たちが親密な関係を作りあげることになったのも画期的な事件であった。「友情」とは古来中国文学が繰り返し描いてきた重要なテーマの一つだが、理想の社会や将来の夢を語り合う精神的な紐帯(ちゅうたい)は、ずっと男性しか享受できないものだったからだ。女性は家から出るものではないとされていた時代、女性同士の交際範囲は極めて私的なものであり、親戚関係あるいは主従関係にほぼ限定されていた。対等な立場で心ゆくまで語り合える女同士の友情とは、近代的な学校教育によって初めて実現したのである。
■知識得て 募る 孤独と不安
では、文学テクストは、この「宙ぶらりんな時間」を生きる少女たちのことをどのように描いてきたのだろうか。中国近代文学最初期の女性作家、黄廬隠(こうろいん)の代表作「海辺の友達」(1925年)では、ある女学生が次のように思いを吐露している。
「(昔は)外へなんか出たことなんかなくて、世界がどういうものかってことも全く知らなかった。両親が与えてくれる不自由ない生活に甘える以外、何の考えもなかったわ。……それが、親戚の一人がよく学校での生活を話してくれるようになって、いろいろな知識を聞かせてくれたの、それが知らず知らずのうちに私を煩悩の道へ連れて行ったというわけ。それからは自分の生活が一々気に入らなくなって、一生懸命に両親に頼んで学校へ行かせてもらったの。学校へ入ってからの人生観はがらりと変わったわ。親戚と相容れなくなり、両親と相容れなくなった。一日一日自分が孤独だと思うようになって、悲しみや無聊(ぶりょう)っていうものがわかるようになったの。…これは知識が私を誤ったってことじゃなくって?」
学校生活は彼女たちの世界観をがらりと変え、もはや自分の未来を無条件に両親に委ねることはできなくなってしまった。そのあと、少女たちは自分の未来にどう向き合い、どう歩みを進めたのだろうか。一人一人異なるその冒険譚(たん)は、近代小説が書くべき大きなテーマとなっていく。1920年代は、西洋から日本経由で「自由恋愛」という思潮が流れ込み、定着していった時代でもあった。
「海辺の友達」は、北京の女子高等師範学校で学ぶ5人の少女たちが、学生時代最後の休暇を一緒に海辺で過ごすところから始まり、卒業後に離散してしまうまでを追う。彼女たちは学校で、自分の悩みや将来の夢について心の扉を開いて語り合う友情を育んだ。
しかし、家長の取り決めであろうと自由恋愛であろうと、結婚して家庭に取り込まれてしまえばその絆はもろくも崩れ去ってしまう。与えられた自由時間は短く、学校で新しい思想を学んだことで、彼女たちはかえって未来を悲観するようになった。こうして、女性作家が描く女学生は、しばしば孤独で敏感で憂鬱(ゆううつ)な自画像となったのだが、そうした悩みは都市部の若い女性以外にはなかなか届かなかったようである。
■小説の中の女学生 バッシング
外側から見れば、女学生はひたすら華やかな存在だった。断髪、ブラウスに黒いスカート、纏足(てんそく)していない足にハイヒールというファッションは、モダンで奔放なイメージで世論の話題になった。旧式の娘たちが長い髪を結い上げ、体の線を隠す中国風の上着とズボンを身につけ、纏足に布靴といういでたちだったのに比べ、女学生たちは「新女性」「自由な女」として認識されていくことになる。それは明治の女学生が、ひさし髪を高く結い上げて女袴(おんなばかま)をはき、自転車を乗りこなす姿が耳目を集めたのと似ていたかもしれない。中国でも日本でも、ハイカラな女学生はすなわち享楽的で貞操概念に欠けている、というステレオタイプなイメージが広まった。学校の外側にいる人々は、女学生たちの内面の鬱屈には無頓着だったのである。
新文化運動を牽引(けんいん)した作家の一人、葉紹鈞(ようしょうきん)の長編小説「小学教師」(28年)では、女学生は「いつも引き出しにおやつを溜(た)め込み、授業が終わればすぐ鏡を手にめかしこんで」いたかと思うと「二人一組になって友情以上の感情を育み、恋慕やら愛惜やら嫉妬やら反目やらといった騒ぎを起こす」ものだ、と辛辣(しんらつ)に描写されている。教養と自我を備えた女学生はしばしば小説のヒロインとして選ばれたが、このように聡明な女(より正確には自分を聡明だと思っている女)は何か欠陥があるかのように疎まれたのだった。
その一方で、女学生たちに恋愛せよ、結婚せよと強いる圧力はどんどん強まっていった。太平洋戦争期に日本占領下の上海で活躍した張愛玲(ちょうあいれい)の短編「花萎(はなしお)れる」(44年)は、中流階級の娘たちの運命を「家柄のために、鄭(てい)家の娘は女店員にも女打字員(タイピスト)にもなることはできない。“女結婚員”になることが唯一の出路だった」と書いている。
20年代、「自由結婚」とは新思想の洗礼をうけた女性だけが享受できる崇高な実践であったが、40年代にはその理想は色あせ、単に生家から出る唯一の通路として意識されるようになったのである。怒涛(どとう)のようにやってきた「自由」は、果たしてどれほど少女たちを解放したのか。文学作品は、歴史文献とは違った角度からその道のりの険しさを教えてくれる。
【はまだ・まや】1969年川西市出身。京都大大学院文学研究科博士課程単位取得退学。京都大人文科学研究所助手、神戸大准教授などを経て現職。
〈ブックレビュー〉
◆「中国が愛を知ったころ」 張愛玲著・濱田麻矢訳(岩波書店)
本文でも触れた恋愛小説の名手、張愛玲は李鴻章(りこうしょう)の外曽孫で、清朝の残香漂う没落貴族の家に育った。上海に生まれ、香港で学び、人民共和国成立後に渡米。本書は20世紀前半の香港、杭州、上海、そして米国を舞台に、自分の出路を見つけようとあがく娘たちの冒険を描いた3編の小説を収録。
◆「房思琪の初恋の楽園」 林奕含著・泉京鹿訳(白水社)
台湾、高雄の高級マンションに住む美少女房思琪は、隣人の著名な予備校講師に言葉巧みに誘惑された。「先生」の高邁(こうまい)な言辞と野蛮な行為とのギャップに混乱した思琪は、「私は先生を愛している」と思い込むことで危機を回避しようとする。「これは真実の物語」と序に書いた作者は本書刊行後に自死、台湾の「#MeToo」運動に大きな影響を与えた。
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