緊急事態宣言の発令下にある夜の神戸を歩いた。山手幹線の電光掲示板には「不要不休の外出は自粛を!」という文字が躍り、行き交う車もない。無人のメリケンパークのかなたにポートタワーが赤く輝き、海洋博物館の屋根が手前できれいな緑色の網目を闇のなかに織り込んでいる。居留地から三宮のセンター街まで足を延ばすが、夜の10時を過ぎたばかりだというのに人影はほとんどない。
こんな風景をどこかで見たことがある。それはさまざまな映画で繰り返し上映された「人類滅亡後」の光景だ。無人の街はあたかも「廃墟(はいきょ)」のようであった。
18世紀のフランスの画家ユベール・ロベールは数多くの廃墟画を残したことで知られている。古代ローマの遺跡をもとに「綺想」とも言われる手法を駆使して描いた彼の絵画を眺めて、同時代の啓蒙(けいもう)思想家ドニ・ディドロは「廃墟がわたしの内に大いなる考えを引き起こす。すべてが消滅し、すべてが消え、すべてが過ぎ去る。ただ世界だけが残存する。ただ時間だけが続いていく。この世界はなんて古いのだろうか!」と述べた(『一七六七年のサロン』)。廃墟は時の流れと世界の変わらなさだけを痛切に感じさせるという。
無人の風景、壊れた建物、あるいはかつて何かであった瓦礫(がれき)がわたしたちに引き起こすこうした感情を、ディドロは「廃墟の詩学」と呼び、別の箇所では「崇高」と名付けた。
現代、「廃墟の詩学」はますますその影響を強め、とりわけそれは映像メディアにおける一大モチーフとなっている。映画『猿の惑星』(1968年)の最後の場面で突如現れる砂に埋もれた自由の女神、あるいはジョージ・ロメロの『ゾンビ』(1978年)における無人のショッピングモールなど、廃墟はさまざまなところで「人間以後の世界」を物語る存在として表象されてきた。
西洋世界では長いあいだ、芸術作品とは現実や理念を模倣したものだと定義されてきた。だが21世紀に差し掛かってまもない2001年9月11日に起こった出来事は、そうした古典的な常識をひっくり返す。双子の塔に飛行機が衝突し、(映像上は)音もなく建物が崩れ去るあの光景は、あたかも現実がハリウッド映画を模倣していたかのようだった。「9・11」は虚構から生まれた現実映像の存在を告げる象徴的な事件となる。今では世界の終わりを物語るフィクションが絶え間なく上映される傍らで、現実のカタストロフの映像がテレビ番組や動画サイトを埋め尽くしている。世界は「世界の終わり」という「スペクタクル」で覆われている。
■文明に取りつく死の気配
『黙示録』以来、あるいはそれ以前から、世界の終末の光景は何度も表象として描き出されている。天使がラッパを吹き銀色のイナゴが飛ぶ。人類の誰も見たことがないそんな光景が「世界の終わり」を物語ってきた。終末の描写が幾度となく創造され、カタストロフが起こるたびに過去の災厄を参照することもできる(コロナの流行においてカミュの『ペスト』やデフォー『ペストの記憶』との類似が話題となったように)。
現代の終末表象には複数の由来がある。第2次世界大戦における特定人種絶滅計画や原子力を用いた大量破壊兵器の登場、冷戦下の核戦争による人類滅亡の不安、21世紀以降その数を増したテロリズムの脅威、あるいはウイルスの突然変異など、時代や地域によって異なるさまざまな「終わり」がわたしたちを脅かしている。
こうした「終わり」の表象には文明論的な意味がある。それは高度に発達した文明下においてさえ人々がつねに死の危険に晒(さら)されていることを教える。戦争や災害だけではない。自動車の暴走や薬品の配合、SNS上のささいな行き違いでさえ、わたしたちに死をもたらしかねない。わたしたちを便利にするために作り出された数々のものは、わたしたちを脅かす存在になりかねない。ひとたび使用法を間違えれば文明は「死の装置」になる。わたしたちは死の気配に取りつかれている。
■荒地からはじまる再生の記憶
だが、そこに一種の「救い」があり、人間の希望があると考えることもできる。ドイツの哲学者ハイデガーによれば、人間とは「死を知る動物」であり、地球上の他の存在とは区別されるという。ハイデガーは猫や猿のことをわかっていないという批判はさておき、このテーゼ自体は現代哲学によってさらに展開することができる。
フランスの哲学者カンタン・メイヤスーによれば、人間は、地球上に人間が存在する以前のことを考え解明する能力をもっている。地球の誕生は46億年前だとされるが、人類は500万~600万年前に誕生した存在にすぎない。つまり人間の知性は、自分たちが発生する45億年以上も前のことを「知る」ことができる。宇宙の誕生、生物の発生、いずれにおいても人間はその現場に存在していなかったし、それを直接経験することもできなかった。わたしたちの知性や精神が、不在のものに思いを凝らすことを可能にするのである。人間は、思考によって自らを超えたところへ自らを運び、その経験を目に見える形にする能力をもっている。「終末」や「絶滅」への傾倒も、精神やまなざしがもつこうした力を示している。
わたしたちは、以前どこかで知った世界の終わりを再上演するだけの存在ではない。人間は、時を超えてさまざまな存在や記憶をたどる術をもっている。時としてそれが「預言」や「綺想」あるいは「想像」や「創造」を媒介に、語りや作品として現実化する。それが「芸術」の一つの姿である。生というはかないものの隙間から、永遠が一瞬だけ顔をのぞかせる。
付言すれば、ディドロが廃墟画から得た「崇高」という感情は、かつてない経験を前にして、心が新たな柔軟性を獲得する経験でもあった。「終わり」に触れる衝撃が新たな力を生み出すチャンスとなる。破壊に再生がついてくる。廃墟もまた、大切なものを再び見つける場所になる。
1995年、神戸市長田区、車寅次郎最後の旅。長編映画シリーズ『男はつらいよ』最終作の最後の場面は震災の跡地であった。瓦礫が残り更地がむき出しになった街区に渥美清演じる寅さんがたどり着く。あるべきはずの屋根がなくなった空間に万国旗がはためいている。急ごしらえのパン屋や肉屋が並ぶ。色とりどりのチマ・チョゴリを着て舞い踊る人々の手前に初詣帰りの人がもつ破魔矢が映る。廃墟の風景が祝福に満ちた再生の空間となる。
【おおはし・かんたろう】1973年京都市出身。京都大学文学部卒、東京大学大学院総合文化研究科修了。専門はフランスを中心とした美学芸術学、表象文化論。
〈ブックレビュー〉
◆「方法序説」デカルト著、谷川多佳子訳(岩波文庫)
「常識はあらゆる人に平等に配分されている」という冒頭の文句は、階級制が根強い当時のヨーロッパにおいて極めて挑戦的であった。ひそかな戦いとしての哲学がここから始まる。旅や引きこもることの功罪についてなど、哲学以外の生活的な記述も興味深い。
◆「黄色い本」高野文子著(講談社)
高校卒業後すぐ工場で勤める田舎の女の子にフランス文学なんて役に立つのだろうか? 役に立つ。思想にかぶれたインテリ崩れなんかより、主人公は読書の喜びと現実をはるかに心得ている。本を閉じれば現実が始まる。だが、その風景は本を読む前と確実に違っている。思想は肉となり、生活が始まる。
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