そのモノクロ写真には、ある一家が写っている。1960年に写真家の桑原史成(しせい)さんが撮影したものだ。質素な畳の間に寝転んだ子が3人。父親がうちわで風を送っている。やせた男児は祖父に手を握られている。
この写真に寄せ、作家の石牟礼道子さんは「今日の『家族』がほとんど失ってしまった、根源と称(よ)んでよい家族の、無償の団欒(まどい)がある」と書いた。「もの哀しくも優しげな父親の表情は、どのような言葉にもまして、彼および彼の家族がおち入った災厄の深さを語っている」
その災厄とは、九州・不知火(しらぬい)海沿岸の漁村で多発した有機水銀中毒症・水俣病だ。公式確認されたのは56年5月1日。それから67年の歳月が流れた。
今年は、水銀を垂れ流した原因企業チッソを患者らが訴えた水俣病第1次訴訟の判決から50年に当たる。3月、熊本県水俣市で記念集会が開かれた。
73年、熊本地裁はチッソの過失責任を初めて認め、総額約9億4千万円の賠償を命じた。当時の本紙記事には「画期的」とあり、同時に「勝訴しても命は返らない」という原告の複雑な思いを伝える。賠償金はせめてもの償いになるはずだった。
ところが水俣病を巡る裁判は今も絶えない。2004年、水俣病関西訴訟の最高裁判決は、国の基準より広く患者認定すべきと判じた。それでもなお、患者と認められない人は多い。
第1次訴訟の裁判長は「企業とこれを指導監督する立ち場にある行政、政治当局の誠意ある努力なしには根本的な解決はあり得ない」と指摘した。
国は法に基づく健康調査にいまだ着手せず、被害の全容さえつかめていない。ささやかな団欒の幸せを奪われた人たちへの誠意が示されるのはいつか。
