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1995年1月28日ごろ、中井久夫さんは「災害下精神医療」のイメージを走り書きした=「災害がほんとうに襲った時」(みすず書房)より
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1995年1月28日ごろ、中井久夫さんは「災害下精神医療」のイメージを走り書きした=「災害がほんとうに襲った時」(みすず書房)より
「兵庫県こころのケアセンター」の加藤寛センター長。震災直後、東京から神戸に駆けつけ、今に至る=神戸市中央区脇浜海岸通
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「兵庫県こころのケアセンター」の加藤寛センター長。震災直後、東京から神戸に駆けつけ、今に至る=神戸市中央区脇浜海岸通
「兵庫県こころのケアセンター」の加藤寛センター長。震災直後、東京から神戸に駆けつけ、今に至る=神戸市中央区脇浜海岸通
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「兵庫県こころのケアセンター」の加藤寛センター長。震災直後、東京から神戸に駆けつけ、今に至る=神戸市中央区脇浜海岸通
故中井久夫さんの教えや思い出などについて語る県こころのケアセンターの加藤寛センター長=神戸市中央区脇浜海岸通1
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故中井久夫さんの教えや思い出などについて語る県こころのケアセンターの加藤寛センター長=神戸市中央区脇浜海岸通1

 「最初の一撃は神の振ったサイコロであった」

 中井久夫さんが阪神・淡路大震災を記録した文章「災害がほんとうに襲った時」(みすず書房)は、この一文で始まる。

 1995年1月17日午前5時46分。神戸市垂水区の自宅で眠っていた。

 「強制的にトランポリンをさせられている感じであった。家人とともになすがままにゆられている他はなかった。何が起こったのか。何も言葉を発しなかったつもりであったが、家人によると『ワーッ』と叫んでいたそうである」

 自宅は震源地である明石海峡を臨む場所にあったが、被害は少なかった。後に、中井さんが「申し訳ない」と罪悪感を抱くほどに。

 あのとき、神戸大学医学部付属病院(神戸市中央区楠町)は、救急車が到着するも「到着時死亡」の連続だった。遺体は霊安室だけでは足りず、会議室にも運ばれた。

 中井さんは病院へ向かおうとした。道は大渋滞。「数時間、連絡不能になることは最悪」と部下に助言され、最初の2日は自宅にとどまった。ひっきりなしに鳴る電話に対応し、関係者の安否確認に当たった。

 19日から出勤。病院には映画「心の傷を癒すということ」(2021年公開)のモデルで精神科医の安克昌さん(故人)らがいた。みな被災者のそばに寄り添おうとしていた。

 「私は現場のスタッフを信頼していた。最大の仕事は、彼らの仕事を包括的に承認することだった」と中井さん。「自分は黒子になる」と宣言し、電話番や渋滞を避けやすいルートマップづくりを請け負う。

一時は神戸を精神科医で飽和させるぐらいにしたいと思いました 「中井久夫集7 災害と日本人」(みすず書房)

 

 中井さんは思っていた。

 「神戸を精神科医で飽和させるぐらいにしたい」「水道の栓をひねったら精神科医が出る、というのに近いものに持っていったら何とかなるだろう」

 震災9日後、かねてつながりがあった九州大にこんな電話をかけている。「神戸の中井ですが! 大変だ! とにかく医者が足りない! 精神科医をすぐに発進させてくれっ」

 全国からボランティアの精神科医が神戸に集まってきた。

 「兵庫県こころのケアセンター」(神戸市中央区)の現センター長、加藤寛さん(64)もその一人。勤務していた東京の病院から駆けつけた。

 加藤さんは、中井さんの言葉を記憶している。「支援者は存在することに意味がある。そばにいて、必要なことが見えた時、ケアを提供するのが大事だ」

 学校避難所を訪問したボランティア医師たち。診察室で患者と向き合うのとはまるで勝手が違う。試行錯誤の毎日で、加藤さんは目を開かれたという。「現場に行かないと何も分からない。現場に真実があった」

 被災者の様子をメモした医師らの日記がある。

 「朝から飲酒。酩酊状態。急性アルコール中毒」「1人暮らし、うつ状態」「不眠、表情は仮面様」-。

 それが「現場」だった。

なかい・ひさお】1934年奈良県生まれ。甲南中・高、京都大卒。精神科医。神戸大名誉教授、「兵庫県こころのケアセンター」初代センター長。翻訳家、文筆家としても活躍し、2022年8月、88歳で死去。

震災28年中井久夫さん
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