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神戸大空襲の経験を語る武智優喜子さん=尼崎市金楽寺町2
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神戸大空襲の経験を語る武智優喜子さん=尼崎市金楽寺町2

 3回の無差別爆撃で約7500人以上が犠牲になったとされる、1945年の神戸大空襲。武智優喜子さん(88)=尼崎市=は3月17日の空襲を体験し、焼夷弾の中を逃げ惑った。

 武智さんは神戸市葺合区(現中央区)出身。一人っ子で、休日には両親と諏訪山公園や湊川神社によく出かけたという。

 穏やかな日常に陰りが生じたのは41年、小野柄国民学校(現神戸市立中央小学校)2年の冬。ラジオが真珠湾攻撃を報じていた。「まだその時は戦争がどんなものか分からなかった」

 やがて戦況が悪化、毎日のように空襲警報が鳴り響いた。学校では「(米爆撃機の)B29に狙われるから赤い服は着たらあかん」と教えられ、遊んでいる時に警報が鳴ると家に飛んで帰り防空壕にもぐり込んだ。

 45年3月17日は病気の父が入院中で、母と2人で過ごしていた。警報を聞き慌てて庭の防空壕に逃げ込んだが、近所の人に「山の方へ逃げなさい」と言われ、貴重品などをリュックサックに詰め、母と走りだした。

 「ドオン」。避難する人が焼夷弾の直撃を受け、ごう音とともに倒れる。逃げる途中、そんな光景を何度も見た。怖くて立ち止まるたび、母に「早よ逃げな」と手を引かれ、必死に足を動かした。

 翌日焼け野原を歩くと、あちこちの防空壕で人が亡くなっていた。自宅は跡形もなく焼け、父も終戦を待たずして亡くなった。それでも気丈に生きてきた。

 「神戸の街を眺める度に『ようここまで復興できたな』と感じる」と武智さん。「今でも空襲の中で逃げた景色を思い出す。とにかくこれからもずっと平和でいてほしい」(綱嶋葉名)

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