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震災学習で使う段ボールベッドの前で、1万日の歩みを振り返る山住勝利さん=神戸市長田区二葉町7、ふたば学舎講堂(撮影・鈴木雅之)
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震災学習で使う段ボールベッドの前で、1万日の歩みを振り返る山住勝利さん=神戸市長田区二葉町7、ふたば学舎講堂(撮影・鈴木雅之)
幼い日の勝利さんと、和服姿の母・玉枝さん=1970年ごろ、神戸市長田区(提供)
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幼い日の勝利さんと、和服姿の母・玉枝さん=1970年ごろ、神戸市長田区(提供)

 阪神・淡路大震災で母を亡くしたNPO法人職員、山住勝利さん(55)=神戸市須磨区=が、全国から神戸を訪れる子どもたちに災害への備えを呼び掛けている。倒壊した自宅の前で何をすべきか分からず、立ち尽くしたあの日から3日で1万日目。「自分のような後悔をしてほしくない。想像力を養い、生きる力を身につけてほしい」。強い思いを胸に語りかける。(上田勇紀)

 「いま、阪神・淡路大震災のような巨大地震が起きて、ここに避難していると考えてみてほしい。怖い気持ち。『また地震が来たら』と不安になる。私自身もそうだった」

 5月25日午後、神戸市長田区の「ふたば学舎」。旧二葉小学校を改修した地域交流拠点で、勝利さんは修学旅行で訪れた岐阜県の中学生約40人に静かに話し始めた。

 学舎を運営するNPO法人「ふたば」の「震災学習ラボ室長」として、段ボールを使って避難所体験を提供。これまで小中高校生ら1万人以上に「1・17」の教訓を伝えてきた。

 「想像することが、いざというときの行動につながる」と力を込める。

     ◇     ◇

 神戸市須磨区大田町の木造一戸建て住宅で、両親と兄の4人で暮らしていた。震災当時は27歳。「ガガガガ」。兄と2階で寝ていた勝利さんはごう音とともに崩れ落ちた。「急な坂を下りるような、ジェットコースターに乗っているような感覚だった」。階段を降りようとしても、1階がつぶれて降りられない。逃げようとして2階の窓を開けると、目の前に道路があった。

 外に出た。1階にいた父碩祚(ゆうしょう)さん=当時(59)=と、母玉枝さん=当時(55)=を呼ぶ。父のうめき声が聞こえたが、母の返事はない。

 救助を手伝ってくれる人が数人集まり、2階の畳をはがして父を助け出せたのは数時間後だ。だが、夕方に運び出された母はもう息がなかった。

     ◇     ◇

 兄と離れ、父と2人で同市西区の仮設住宅に入った。アルバイトをしながら夜間、大学に通った。

 震災翌年の2月のことだ。夜に授業から帰ると、住宅にパトカーが止まっている。たまたま訪れた兄が部屋で亡くなっている父を見つけた。心筋梗塞だった。以前から病気がちで、震災関連死の申し立てはしなかった。

 母に続いて父を突然失い、「生きる気力を失った」。電車に乗っていても、散歩をしていても、後悔の念が頭をよぎる。「もっと自分にできることがあったんじゃないか」「地震で壊れるような家に住んでいなければ」。自分を責め、後ろ向きな気持ちにとらわれた。

 落ち込む心を振り切るように学問に集中した。アメリカ文学を専門に大学院の博士課程を修了。大学などで非常勤講師を務めたが、心は沈みがちだった。

     ◇     ◇

 転機は38歳での結婚だ。翌年に長男が生まれ、6年後には長女が誕生。わが子の成長を見ていると、「幸せの塊みたいな存在に」心がほぐれた。「しっかり生きていかなきゃ」。前を向ける自分がいた。

 44歳で転職。現在のNPO法人に入った。震災学習の担当になり、あの日を知らない世代に「自分事」として捉えてもらえるよう知恵を絞る。「両親のことは、何だかうまく話せない」と勝利さん。口数の少ない性格は、父に似たと思う。

 幼いころ、怒ることのなかった穏やかな母が口癖のように繰り返した言葉をよく思い出す。「姿勢を正しなさい」。猫背を注意された言葉だったが、いまは「背筋を伸ばして、しっかり生きなさい」という励ましと捉えている。

 今年2月に母と同じ年齢になった。「母より長く生きることが、親孝行になるのかな」。もうすぐ、震災後の人生の方が長くなる。

【特集ページ】阪神・淡路大震災

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