• 印刷
退任会見で笑顔を見せる荒木一聡副知事=3月31日午後、兵庫県庁
拡大
退任会見で笑顔を見せる荒木一聡副知事=3月31日午後、兵庫県庁

 31日で兵庫県副知事を退任する荒木一聡氏(66)が同日、記者会見を開いた。44年間の県庁人生を独特の表現を交えながら振り返り、後輩職員たちに「チーム兵庫を体現してほしい」とエールを送った。主なやりとりは以下の通り。

 -44年間を振り返って。

 「健やか、爽やかですね。苦労はありましたが、吹っ飛んじゃいました。県庁を選び、自分なりに突っ走ってこれた。44年の県庁生活のうち40年が本庁勤務でした。税財政の運営を担当したのは32年。お仕えした歴代の知事は坂井時忠・元知事が7年で貝原俊民・元知事が14年、井戸敏三・前知事が22年、それから斎藤知事が8カ月になります」

 -印象深かった出来事は。

 「やはり阪神・淡路大震災です。当時は財政課の筆頭補佐でした。県職員の大勢が災害救助や復旧の現場に身を置く中で、私は裏方の役割。災害復旧・復興にかかる予算を編成し、財政再建の道筋を考えていました。6千人を超える人々が亡くなられる中、ボランティア元年など、阪神・淡路からいろいろなものが生まれました。東日本大震災などの被災地における復旧復興の支援制度は、阪神・淡路の貴い命(の犠牲)があって生まれた制度だと思っています」

 「阪神・淡路大震災復興基金(の創設)も挙げたい。被災者に生活再建支援金や高齢者の支援金を支給しました。個人に対する給付です。住宅再建に関しては税金は支出しない『後藤田ドクトリン』があり、基金(からの支給)というスキーム(枠組み)をつくりました」

 「あと二つ、言わせてください。一つは行財政構造改革(行革)です。人件費と社会保障関係の行政施策、投資水準をバランスよく見直しました。阪神・淡路前の県財政は筋肉質だったと思います。決して無駄があったわけではないが、震災復興のフェニックス計画は16兆3千億円の事業でした。県は事業費の2兆3千億円を担い、うち1兆3千億円は地方債(借金)を発行しました。大変な重荷になりましたが、その中でも県民生活は極力後退しないよう最大限配慮しました。行革をやらせていただけたのは、県民の皆さん、県議会、市町村、関係機関、そして県職員が一つの目的に向かって再建に取り組めた。行革は兵庫県の誇るべきものだったと思います」

 「もう一つだけ。私が県庁に入ったのは1978年。当時、地方の時代と言われていたんです。民間企業への就職も頭にありましたが、私の田舎は但馬の浜坂町(現新温泉町)です。東京の大学に向かうたびに、新幹線の主要駅が均質化しているよう見えました。どこの駅も特徴が見えない。若干さみしかった。そんな時、国の三全総(第3次全国総合開発計画)が『地域をもっと大事にしよう』と示しました。下宿先の家主さんが就職先を悩む私に『これからは地方の時代だよ』と背中を押してくれた。44年勤め、本当に地方の時代が来たな、来ているなと感じています。地域の課題を自分たちで解決できることに幸せを感じ、兵庫県という職場にお世話になって良かったというのが今の気持ちです」

 -退任はいつ頃から頭にあったのか。

 「悩みましたよね。いろんな思いがありました。ずっと悩んでいたというのが事実です。今年に入ってからですよね」

 -何が退任を決意させたのか。

 「66歳にもなりました。若い職員が力強くなっています。老兵は去らなくちゃならない」

 -県政を担う職員に伝えたいことは。

 「県民一人一人の生活の中に県行政はあると違うんか、と思います。県民と話す中で困り事を知り、そしてして、どうしたら解決できるかを考えるのが公共の福祉ではないでしょうか。課題が見えたならば、失敗してもいいから組織に、知事に提案してほしい。そのためには勉強し、自分を磨く必要があります。同じ職場の人たちと、チーム兵庫で仕事をしてほしい」

 -これからやりたいことがあれば。

 「ゆっくりさせていただこうかと思います。おふくろを独りにさせていたので、顔を見たい。それと時間をつくって、のんびりと全国各地に行ってみたいですね」

 -4月からの仕事は。

 「県体育協会(4月1日からの名称は県スポーツ協会)と、県農業会議でお世話になります。コロナ禍で国体が2年も開かれていませんよね。各競技団体も選手も、もやもやしているはず。今年は栃木県で開催予定ですが、コロナを打ち破り、選手の皆さんたちと一緒に国体に行けたらいいなぁと思っています」

新県政始動
もっと見る
 

天気(9月8日)

  • 33℃
  • 28℃
  • 40%

  • 33℃
  • 25℃
  • 50%

  • 34℃
  • 28℃
  • 20%

  • 34℃
  • 27℃
  • 40%

お知らせ