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震災から1カ月、発生時刻の5時46分に黙とうする北村春江芦屋市長ら=1995年2月17日、芦屋市役所
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震災から1カ月、発生時刻の5時46分に黙とうする北村春江芦屋市長ら=1995年2月17日、芦屋市役所
当選を支持者と喜ぶ北村春江さん(右)=1995年6月11日、芦屋市公光町
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当選を支持者と喜ぶ北村春江さん(右)=1995年6月11日、芦屋市公光町
退任式で市役所職員に見送られる北村春江芦屋市長=2003年6月、芦屋市役所
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退任式で市役所職員に見送られる北村春江芦屋市長=2003年6月、芦屋市役所

 13日に死去した元芦屋市長、北村春江さんが全国初の女性市長として活躍した3期12年は、阪神・淡路大震災で山積した課題への対応とともに、女性への偏見との闘いでもあった。行政関係者や、後に続いた女性市長たちが功績を振り返り、別れを惜しんだ。

 震災後、北村さんは「女性市長に震災復興はできない」と攻撃された。市議会で土地区画事業の予算案が否決され、反発する被災者らから公用車のボンネットやガラスをたたかれたこともあった。

 しかし、当時市議だった山中健・前芦屋市長は震災後、まちの隅々を歩いて被災者を励ましてきた北村さんの姿を覚えている。「遺体の並んでいるところで頭を下げていた。誠実な性格が出ていた」と話す。

 井戸敏三・前兵庫県知事は「仮設住宅の整備と早期解消の両方に心血を注いでおられた」と評価する。狭い市域では仮設の建設用地が確保できず、芦屋市は学校の校庭を使う方針を表明した。「仮設の解消も芦屋が県内で最も早かった」と功績をたたえた。

 2002年に県内2人目の女性首長として白井文・尼崎市長が誕生。現在は尼崎、宝塚、芦屋市と播磨町で女性が首長に就く。

 芦屋市の伊藤舞市長は、市議を務めた母のとも子さんが北村さんと旧知の仲だった。「今の芦屋市では女性管理職の人数も多く、男性職員の育休取得率も高い。言葉で言い尽くせないほどの功績を残された」と悼んだ。

 宝塚市の山崎晴恵市長は「名前が同じ『はるえ』でとても親近感を持っていた。一番の手本となる存在だった」と惜しみ、尼崎市の稲村和美市長は「偉大な先輩に対して胸を張れるように頑張っていきたい」と話した。

 一方、北村さんは俳句にも親しみ、2月27日に91歳で亡くなった俳人稲畑汀子さんとも親交を深めていた。

 芦屋市婦人会名誉会長の広瀬忠子さん(94)は会長時代に親交があり、陳情活動で一緒に上京して同室になるたび、夜通し語り合ったという。同年代の訃報に「市の発展のためリーダーシップを発揮しながら優しさにあふれていた。細やかな気遣いができる大変立派な方だった」と惜しんだ。

 同市の前市長山中健さん(72)は、北村さんの1期目に市議として出会い、2003年4月に市長のバトンを引き継いだ。「北村さんを語るときは『日本初』と必ず付く。それだけの偉業を成し遂げられたことを尊敬している」と冥福を祈った。

 宝塚市の前市長中川智子さん(74)は阪神・淡路でボランティア活動をしていた際、芦屋市が市独自で仮設住宅にクーラーを付けた取り組みに感銘を受けたという。「仮設は寒い時期に建ったので、多くの自治体は夏のことを想定していなかった。北村さんには先見の明があった」

 さらに女性市長の扉を開いた北村さんに影響を受けたといい「命を守ること、生活や暮らしに根付いた行動は女性市長ならでは。直接の面識はなかったが、ずっと尊敬していた」と語った。

 北村さんは長年俳句にも親しんだ。俳句界の巨匠高浜虚子の孫で俳誌「ホトトギス」の名誉主宰を務めた稲畑さんとは交流が深く、市長1期目には稲畑さんが市教育委員に就任した。2000年にオープンした虚子記念文学館(平田町)の式典にも参加し、退任後は稲畑さんの句会にも月1回参加していた。

 1999年1月には震災の悲しみをこう詠んでいる。

 四たび来る 追悼の日の寒さかな

(まとめ・竹本拓也)

おくやみ阪神震災27年格差解消ひょうごから
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