町の薬局で新型コロナウイルスの抗原・抗体検査キットを見かけるようになった。厚生労働省が承認したものに限って販売が許可されたためだが、感染者が減っているせいかあまり売れていないという。油断は禁物だが、解放感に浸れるこんな時こそ新たな角度から感染症を考えたい。
最近、ウイルス学者の自伝を編集した。「ウイルスの意味論」などの著作で知られる、山内一也・東京大名誉教授の「ウイルスと私」だ。
山内さんは戦後の混乱期に東大農学部獣医畜産学科に入学以来、ウイルス研究の最前線を歩いてきた。業績は紹介しきれないが、麻疹ウイルスの発病機構の研究から、20世紀末に急速に広がった人獣共通感染症への対応、またバイオセーフティや生命倫理など科学と市民社会を結ぶテーマにもいち早く取り組み、問題提起してきた。
人類が制圧した感染症は天然痘と牛疫の二つしかないが、世界保健機関の天然痘根絶計画と、国連食糧農業機関の牛疫根絶計画の両方に参加した唯一のウイルス学者でもあり、山内さんの生涯をたどることはそのまま感染症の現代史を見るようであった。
■実験動物が支える研究開発
原稿を読んで気になったのは、多くの動物が登場することだ。マウスなどの小動物だけでなく、ウマ、ブタ、ヤギなどがウイルスの接種実験やワクチン製造のために使われた。天然痘ワクチンを作るため、体重400キロのウシと格闘したこともあったそうだ。
人間の臨床試験に進む最終段階で用いられる重要な動物が、サルである。山内さんが国立予防衛生研究所(現・感染研)に入所した1979年頃は、ポリオワクチンの国家検定のため年間1000頭のサルが使われていた。
大半が東南アジアから輸入されたカニクイザルで、Bウイルスというヘルペスウイルスに感染していた。サルでは発症しないが、人にうつれば神経系に重い後遺症を残す。野生ザルは赤痢菌や結核菌、寄生虫などにも感染しているため、実験用としては課題が多かった。逆に人間社会で人からはしかに感染するサルもいた。野生動物保護の観点からも、捕獲したサルに依存する体制は好ましくない。
そこで必要となったのが、実験室内で安定的にサルを繁殖させる施設だった。山内さんは欧米の霊長類センターを視察し、研究の現状や飼育方法を調査した。とりわけ重要だったのが、バイオハザード(生物災害)対策だ。
ウイルスは危険度に応じて四つのクラスに分類して安全対策をとる必要がある。山内さんは米国保健省の疾病対策センター(CDC)を視察し、日本初のレベル4実験室の設計図を書いた。
エボラ出血熱が発生した時は自民党の強い主導のもと、山内さんらの調査団が米国に再び派遣され、東京の武蔵村山に高度安全実験室が完成した。ところが地域住民の反対で、レベル4のウイルスの研究はできないまま長い時が過ぎた。
レベル4実験が認められたのは、施設ができて三十数年後の2015年。この間、帰国者に正体不明の感染症が出た際は、山内さんの個人的なつてでCDCにウイルスの検出を依頼したこともあった。日本に立派な施設があるのになぜ使用できないのかと、CDCから疑問を持たれたという。
今回、日本はコロナ・ワクチンの開発に出遅れたが、国が感染症に対して社会的な理解を得る努力を長らく怠っていたことが大きな要因と思えてならない。
山内さんが設立に携わった感染研霊長類センターの後継である、国立研究開発法人医薬基盤研究所霊長類医科学研究センターは、実験用のサルを産官学に供給する国内唯一の施設だ。年間約200頭のサルが生まれ、ウイルス・フリーの状態が保たれている。糖尿病や高脂血症の病態の研究、インフルエンザやエイズなど感染症や神経難病の疾患モデルも作られている。
最近では、コロナの病態を反映したカニクイザルが確立されたことが、米国科学アカデミー紀要10月10日オンライン版で発表された。コロナは高齢者や基礎疾患を持つ人が重症化しやすいが、若いサルと基礎疾患を持つ高齢サルを比較して、これが人間の病態を反映することも確認されている。今後は治療薬の開発や予防法の研究に貢献するだろう。
発表を受け、山内さんは語る。「30年以上、これらのサルを維持するのには大変な苦労がありました。エイズ関連の研究のため設けられた実験室や病院なみの検査機器を含め、長年の蓄積がやっと日の目を見た気がします。初代センター長の本庄重男さんが生きていたら、さぞ喜んだでしょう」
実験動物は、長年にわたる動物福祉の議論を経て定められた国際的な倫理原則にのっとって飼育され、実験にあたっては頭数を少なく(Reduction)、代替法があれば優先し(Replacement)、苦痛を軽減する(Refinement)という「3R」の原則が順守されている。
私たちの健康が何に守られてきたのか。基礎を築いた研究者の努力と、実験動物の貢献に改めて思いをはせたい。
(さいしょう・はづき=ノンフィクションライター)
