神戸市長田区の山吉市場。二十一日午後、電動車いすでパンの出張販売に出かける障害者共働作業所「くららベーカリー」のメンバーに、あちこちの店から「いってらっしゃい」と声が掛かった。
「くらら」は市場の一角にある。障害者がパンを焼き、店で売る一方、出張販売してきた。仮設住宅に出向くのはその日が初めてだった。
「震災をきっかけに、市場とのつながりが深まった」と店長の石倉泰三さん(43)は言う。
オープンは九四年四月。会話を交わす店は、最初の数軒から増えなかった。九カ月後に震災が襲う。市場にあった四十四店すべてが全半壊した。半壊だった「くらら」は、一カ月半後に再開、市場での炊き出しを提案して実現させ、避難所にもパンを配った。
「ご苦労さん」「がんばっとうね」。次第に市場の人たちの声掛けが増えた。メンバーの平山光博さん(39)は毎日、自分たちの食事の買い出しをする。精肉店の店主は、献立を聞いて適当な肉を選び、必要な分量を手渡してくれる。八百屋さんもそうだ。最初は必要だった材料と分量のメモもいらなくなった。これも、震災後の風景だ。
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「くらら」のような無認可小規模共同作業所は、国・自治体の十分な助成がない。下請け作業が多く、立派な作業所は確保できない。被災地で二十九カ所が全半壊した。
そんな共同作業所の再建を民間が支えた。兵庫県社会福祉協議会を通じた寄付だけで約二億四百万円。仮設作業所十棟の寄贈があったほか、ライオンズクラブは五カ所の建設費を援助した。
「これだけ共同作業所が注目されたのは初めて。理解が少し進んだのでは」と兵庫県社会福祉協議会で、支援を担当する岩木久敏さん(36)は話す。
だが、被害を受けた共同作業所のうち、少なくとも五カ所が今も転居先を見つけられない。「地域と作業所間の『壁』は依然としてある」と岩木さん。
垂水区の「ゆとり作業所」は県社協委嘱の再建相談員らの助言で、家探しを続ける。希望は広さ四十・七十平方メートル、家賃十万円程度。「不動産業者回りは週一回。障害者には貸せないといわれることもある。何とか見つけたいが」と、柚鳥孝通所長(46)は嘆く。
厚生省の無認可作業所に対する方針もほとんど変わらなかった。「変えたのは二つだけ」と共同作業所全国連絡会。一つは国庫補助を一カ所十万円アップの年額百十万円にしたこと、もう一つは昨年末の障害者プランで初めて、「助成措置の充実」と盛り込んだこと。「震災を機に抜本的な見直しを」との関係者の思いは実らなかった。
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「くらら」のメンバーが出向いた長田区の西代仮設住宅。机一つの店を開いたメンバーに、住民が「がんばってね」「山吉市場にあるんでしょ」などと声を掛けながら、次々とパンを買っていった。約二百個が三十分で売り切れた。
石倉さんには重度障害者の長女(19)がいる。「親がいなくても障害者が生きていける社会が願いなんです」と話す。
「かかわりを持つことで周囲が変わることが震災で分かった。市場の人、出張販売先の人、仮設を訪ねることで、また地域とかかわれる」。震災は一つの土壌をつくった。かかわりの積み重ねが障害者の住み良い社会につながっていくはずだ、と石倉さんは考えている。
1996/5/28