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共生の大地へ 没後1年・内橋克人の歩いた道

(8)「人間復興」の経済を目指して 「頂点同調主義」の危うさ

2022.09.21
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神戸空襲の体験を語る内橋克人さん。「頂点同調主義にからめとられた私たち日本人の弱さ。再びその兆候が色濃く突出してきた」=2005年8月、神戸市中央区

神戸空襲の体験を語る内橋克人さん。「頂点同調主義にからめとられた私たち日本人の弱さ。再びその兆候が色濃く突出してきた」=2005年8月、神戸市中央区

 2005(平成17)年8月20日午後。郵政解散に打って出た小泉純一郎首相(当時)が神戸・元町を遊説に訪れ、大観衆を前に演説した。同じころ内橋克人さんは近くのホールで語りかけていた。「今、満員のこの会場こそ声なき人々の声、力なき人々の力で満たされている」。神戸大空襲を語る会での講演だった。

 その60年前の3月17日。大空襲で神戸の西半分が焼かれた。死者2600人以上。当時12歳の内橋さんはその前日、虫垂炎を発症し入院した。本来座るはずだった自宅裏の防空壕(ごう)の席に母親代わりのような女性が座った。そこに焼夷(しょうい)弾が直撃し、壕は崩れた。父が掘り返した。「身を少し傾け、泥にまみれ、眠ったように座っていた。打たれた肩の形は崩れ、赤黒いものが左半身をべったりと覆っていた」(「荒野渺茫(びょうぼう)」)。身代わりによって自分の生がある。終生、胸に抱き続けた。

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