地震から十日後。洋子の目に光が戻ったのを、母の美智子は見逃さなかった。そっと声を掛けた。「おっきい地震がきたんやで」。いくつもの管につながれたままの集中治療室。無言の洋子の目からハラハラと大粒の涙がこぼれた。
「助かる望みは3%」と告げられていた城戸洋子=当時14歳=は、生き抜いた。驚異的な回復力で三カ月後に退院。だが「おしゃべり洋ちゃん」の面影は消えていた。
倒れたピアノで頭を強打したとはいえ、CTやMRI(磁気共鳴断層撮影装置)でも特に脳に異常はなかった。しかし、様子がおかしい。「うん」や「えー」と返事はするが、言葉が続かない。色鉛筆の色が分からない。字が書けない…。
家族で散歩に出掛けると、にぎやかな弟や妹の後を黙ってついて来る。シーンとしている。「人間の気配がないみたい」。美智子は不安だった。
二年間のリハビリを経て、私立高校に入学。集中治療室にいる間、担任が震災特例での受験をアドバイスしてくれ、内申書で合格していた。
白いベスト、赤いリボン。あこがれの制服に袖を通した。だが、勉強についていけない。簿記や流通経済など、初めての科目で知識が身に付かない。テストで一ケタの点数が続く。
友達といても、隣で笑っているだけ。伝えたい思いが、頭のどこかでつかえているように見えた。
何の障害か。回復の可能性はあるのか。主治医の脳外科医は、首をかしげるだけだった。
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「おい、これ、洋子と同じ症状ちゃうんか」。父の章が美智子に新聞を手渡した。吸い込まれるように記事を読む。「ほんまや」。名古屋市内の病院名が書いてあった。電話番号を調べ、受話器を握った。
地震から六年がたっていた。病名が分からないまま、洋子は私立高を一年で中退。その後、定時制高校に再入学し、三年生になっていた。
記事はこんな内容だった。十九歳で交通事故に遭った女性。見た目は元気に回復したのに、感情が抑制できず、記憶力が低下した。勤務先に解雇され、友人たちも離れていく。七年目に精密検査を受け、初めて病名が分かった。
高次脳機能障害-。見慣れない文字が目に焼き付いた。
名古屋市総合リハビリテーションセンターに親子三人で向かった。一泊二日で検査を受けた。同じ障害と診断された。
名古屋の家族会にも参加。洋子の症状を訴えると、「うん、うん。そう、そう」と親身に聞いてくれた。
「分かってくれる人と、やっと会えた」。美智子の心が震えた。(敬称略)
2004/8/2