足に傷はない。手でそっと触る。何も感じない。動かそうとしても、動かない。医師の宣告が頭の中を巡る。「下半身まひで、もう歩くことはできません」。俺(おれ)はどうなるのか。一人になると、集中治療室の天井を見つめ続けた。地震から二カ月が経っていた。
がれきの中から救出された西宮市の松田日出男=当時25歳=は、すぐに近くの病院に運ばれた。寒さと痛みから二日間、体の震えが止まらなかった。病院には、遺体が次々と運び込まれた。
背骨の中枢神経が傷ついていた。せき髄の損傷。大阪府内の病院に転送され、手術を受けた。三カ月で十キロやせた。母と姉の見舞いが心の支えだった。
一九九五年春、リハビリのため、神戸市西区の県立総合リハビリテーションセンター・中央病院に転院。胸から腰にかけて、まだ大きなコルセットが巻き付いていた。
松田は車いすのまま診察を受けた。主治医は両手で、松田の脚の筋肉をすみずみまで触り、ひざを曲げ、伸ばした。診断後、レントゲン写真を見て淡々と言った。
「君のけが、かすり傷みたいなもんや。リハビリの部屋みてこい」
体育館のように広い部屋。両脚を付け根から切断した若い男性の姿が目に飛び込んだ。平行に並んだ二本のポールを、両腕を使って少しずつ前に進んでいく。「腕が足みたいや」と思った。
病院には、首から下のまひや手足の切断など、さまざまな障害者がいた。松田と同じように震災でがれきの下敷きになり、せき髄を損傷した患者も何人かいた。みんな、真剣にリハビリに取り組んでいた。
しばらくたって、センターの体育館で車いすバスケットボールを見学した。コートの広さもリングの高さも健常者と同じ。選手は車いすを猛スピードで自在に走らせ、激しくぶつかり合う。車いすであんなことができるのか。驚いた。
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「あんたは命があるからええやん」。知り合いのおばちゃんが言った。震災の日、受験勉強をしていた娘二人は、たまたま普段と違う部屋にいて犠牲になった。中学三年生と一年生。松田が車いすから見上げると、涙がぽろぽろ流れていた。
西宮市の実家も、住んでいたアパートも全壊した。アパートでは顔見知りの夫婦が死んだ。生と死は紙一重だった。
病院から一時帰宅したとき、スーパーでおばちゃんに会った。おばちゃんはその後、つらい思い出を抱えきれず、被災地を離れた。
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ふと、顔を上げて周囲を見渡すと、誰もが懸命に生きていた。
「俺は、命があって良かった」
気持ちが前に向いた。(敬称略)
2004/8/6