生まれ育った街を「ふるさと」と呼ぶならば、私にとってのそれは正真正銘、神戸である。しかし、この「ふるさと」という言葉、そう一筋縄ではいかないこともある。小学校低学年の頃、担任の先生が父母の「ふるさと」を発表する課題を出した。父に「ふるさと」はどこかと尋ねると、「ふるさとなんかあるもんか」と啖呵(たんか)を切られた。理解できないまま、同級生や先生に報告した。私の同級生はみな団塊ジュニア。私はクラスで唯一の焼け跡ジュニアであった。というのも、私の父は、思春期に終戦を迎えた「焼け跡世代」であった。50代半ばの当時の父には「ふるさと」はなかった。次のような事情によるらしい。
父は、昭和5年に神田で生まれるとすぐ、祖父母と渡欧。小学校の低学年で帰国し東京に暮らす。15歳で東京大空襲に遭い、家を焼けだされた。神戸御影の祖父の実家では、曽祖父が落下してきた焼夷(しょうい)弾から曽祖母をかばい亡くなった。玉音放送は、一時的に滞在した神戸有馬で家族と聞いた。戦後は東京に戻り旧制中学を卒業。東京と神戸で家を失った一家は島根県松江に疎開し、父はそこで旧制高校へ進学。その後、新制大学への進学を機に、神戸へ。やがて、就職・結婚を果たす。
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