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(2)手探り そばにいることから
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 阪神・淡路大震災後の混乱のさなかにあった1995年1月下旬。兵庫県教育委員会に1本の電話がかかってきた。「子どもの心のケアを急いでください。一刻も早く手を打たないと、大変なことになりますよ!」

 教育次長だった近藤靖宏さん(72)に、神戸の小学校に詰めていた臨床心理士の女性が、切迫した口調で対応を迫った。

 「心のケアも、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉も知らなかった」という近藤さんは返す言葉がなかった。

 被災地の子どもたちは、家族や友人を失ったり自宅が壊れたりし、余震におびえていた。学校は避難所に使われながら順次、授業を再開。すると同時に、子どもの異変が伝えられた。母親と離れられない。教室に入らない。突然、大声を出す-。

 しかし、どう対処すべきか見当もつかない。近藤さんは2月、京都大名誉教授で臨床心理学者の河合隼雄さんを訪ねた。数日後、研修会で河合さんの話に約千人の教員が耳を傾けた。

 「心が傷つくのは当たり前。宝物をなくしたのだから。子どもたちが安心感を持てるよう、寄り添うことが大事です」

    ◆

 子どもと向き合うには相応の教員がいる。同年3月、教員定数への上乗せを求め、防災服姿の県教委幹部が文部省(現・文部科学省)で頭を下げた。訪問を重ね、このときも話し合いは10時間に及ぶ。「前例がない」と突っぱねる同省に、「現場を見てほしい」と譲らなかった。

 95年度は128人、翌年度からは207人が「教育復興担当教員」として配置された。心のケアや防災教育、学校と地域や家族のつなぎ役を任された。だが、すべてが手探り。96年から4年間、芦屋市立潮見小学校の担当教員だった伊藤進二さん(57)も戸惑い続けた。

 自宅が全壊し、テント生活を送った男児は、人前で着替えができなくなっていた。登校中に「今、地震がきたらお母さんに会えなくなる」と泣きだした女児がいた。慌てて母親を呼び寄せた。震災の映像を見ておびえる男児に、伊藤さんは「地震で体験したことを、自分の強さに変えていこう」と声をかけた。「僕はそんなんいやや」。男児は口を閉ざしてしまった。

 「素人が心の問題に触れてもいいのか」「このやり方でよかったか」。自問が重なった。

 一方で、現場は待ったなしだった。97~99年度、県教委の集計によると、震災の影響で教育的配慮が必要な児童、生徒は4千人を超えていた。

 「議論より、まずは目の前の子どもに手を差し伸べよう」と決めた。立ち止まったときは、河合さんの言葉を反すうした。

 「特別なことはしなくていい。そばにいるだけでいい」(中島摩子、仲井雅史)

2009/11/30
 

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