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(1)沈黙 分かったつもりだった
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 阪神・淡路大震災の話をしたい。あの日から、来年で十年になる。

 また震災の話か、という人もいる。まだ言っているのか、という声も聞く。この兵庫でさえそうだ。ほかの土地ではもっと、遠い過去になりつつある。

 三十一人が亡くなった大阪で、犠牲者が暮らしていた街を訪ねた。「この町内で死んだ人がいるんですか」。自治会の役員も近隣住民も、少し驚いてそう聞き返した。亡き人々の息遣いは、都会の谷間に消え去っていた。

 時の流れが速い。日々、事件や事故で多くの命が奪われる。世界中に戦火がある。震災だけにこだわっていられない、といわれるかもしれない。しかし、自分たちの足元で、一瞬にして何千もの未来が断ち切られた災害さえ置き去りにして、私たちは「命の大切さ」など語ることができるのだろうか。

 「また震災か」と、大きな声で言える強さがある人はいい。

 何も言えず、ただじっと重い荷物を背負い続ける人々がいる。

 あの日壊滅した神戸の街を、再び歩いた。震災時の住所を頼りに、中学三年と一年の姉弟が亡くなった場所を訪ねた。かつては文化住宅だった。両親は近くの町に住んでいると聞いた。

 呼び鈴を押すと、父親(53)が顔を見せた。玄関先で少し立ち話をした。妻は三年前、病気で亡くなっていた。

 別の日、仕事帰りに待ち合わせた。壁一枚を隔てた部屋で声もなく逝った子どもたちのこと。その後の避難生活。一つひとつの答えが丁寧だった。「自分が二人の代わりになればよかった、と考えることはありますか」。ぶしつけな質問に「いや」と言った後、「一緒に逝っとけばよかった」。小声が返ってきた。

 財布の中には、子どもたちの写真入りテレホンカードが何枚もあった。親族の結婚式でおめかしした二人。父に甘える娘。幸せを絵にかいたような家族の時間が、そこにあった。

 少しビールを飲んだ。翌日、電話を受けた。「子どもの話をしたのは、本当に久しぶりでした」

 一家と同じ街にいた人々と話すたび、九年の沈黙の過酷さを知った。

 川西市の市営住宅に引っ越した老夫婦も訪ねた。五十代の娘夫婦を亡くした。店の後継ぎだった。

 部屋の壁に、神戸を写した広告が張ってある。「帰りたい」。涙ぐむ妻(85)。たまに神戸へ行く。電車の中では必ず、かつて住んだ街が見える席に座る。「年々、忘れていきそうなもんやのにね」。つぶやき、また涙をぬぐった。

 出会えなかった遺族も、それぞれに止まった時間を抱えていた。取材を申し込むと、電話口で震える声。「忘れたい」。そう言って、「一日も忘れたことはありません」と絶句した。

 人々が住んでいたのは神戸市東灘区本庄町一丁目。

 住民の手で被害を色分けした住宅地図がある。壊れた家はピンク、残った家は緑。一丁目はほぼピンクで染まる。

 九年余りがたち、街は変貌(へんぼう)した。長屋や文化住宅が消え、マンションが建った。この街で起きたことを、知らない人も増えた。

 そして、被災地にいる私たちも、実は震災の本当の姿を知らない。死者を六千四百三十三人と決め付けていたように。分かったようなつもりで、遺族の深い孤独を理解していないように。

 震災から、私たちは何を学んだのか。もう一度初めから、答えを探してみたい。伝え合いたい。「自分たちの身には起こらない」という過信で、再び何千もの命が奪われることのないように。

2004/4/20
 

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