「宝荘」という文化住宅があった。
木造二階建て。十世帯が暮らしていた。一階が押しつぶされ、八人が亡くなった。
妻と息子三人の五人家族だった野田高さん(57)は、長男の宏一さん=当時(16)=を失った。玄関近くの六畳間に夫婦、もう一つの六畳間に子どもたちが寝ていた。揺れを感じる間もなく、落ちてきた天井。「おとぅー」と、自分を呼ぶ声がした。二男だった。三男の声も聞こえた。宏一さんが、足で畳をたたいたような気がした。
隣家では、一家三人が亡くなり、修学旅行中だった高校生の長男だけが助かった。反対側の隣家では、中学生の姉弟が亡くなった。
宝荘があった神戸市東灘区本庄町は、震災前、木造賃貸住宅が密集する地域だった。
中でも多かったのが、関西で文化住宅と呼ばれる二階建てアパート。一九六〇年代、畑が広がっていた町に、地方からの若い労働力の住居として急増した。地元の不動産業者は「海岸沿いに集まる工場や周辺の鉄工所などで働く人の需要が多かった」と話す。
震災前、風呂付きの家族向けで家賃四-五万円、風呂なしの単身者向けなら三万円以下。歩いて数分のところに、たいてい銭湯があった。
市は震災前、同町を含む「深江地区」を、老朽住宅の建て替えに補助金を出す「密集住宅市街地整備促進事業」の対象地域としていた。が、町内で補助を利用した建て替えはゼロ。昔ながらの下町の風情を、「住みやすかった」と懐かしむ住民は多い。
文化住宅はなぜ、これほどひどい被害を受けたのか。専門家は「間口と平行する壁の量が少なく、構造的に壊れやすかった」という見方で一致する。
神戸大学経済学部の高橋眞一教授(経済地理学)が東灘区の被害を調べた。低層共同住宅や長屋の死亡者の率は、千戸あたり四十三人。一戸建ては三十七人。中高層住宅は二人だった。
家賃の安さから、学生らの住まいとしてもよく利用され、被災地全体の二十代の死者数を押し上げた。被災十市十町にある木造の民間賃貸共同住宅は、震災前から四万戸以上も減少した。
大阪市立大学大学院文学研究科の水内俊雄教授(都市社会地理学)によると、大阪でもワンルームマンションなどに変わる傾向が強いという。
危険な住宅が減っている、といえるかもしれない。しかし、水内教授は「所得のそう高くない層にとって、住める民間住宅がどんどん減っている」と危惧(きぐ)する。住民の拡散。それは、「災害時の助け合い」を支えるコミュニティーの崩壊にもつながっていく。
震災後、マンションが立ち並ぶ本庄町。文化住宅に住んでいた人の多くは、街を離れた。長男を失った野田さんも、別の町の市営住宅に移った。
2004/4/25