倒壊家屋などに身体の一部を挟まれ、血が通わなくなると、筋肉は通常四~六時間で壊死(えし)する。救出直後に血流が再開した瞬間、破壊された細胞からカリウムなどの毒素が体内に回る。
戦災やテロなど、建物の破壊を伴うケースに特有の症例で、「挫滅症候群(クラッシュしょうこうぐん)」と呼ばれる。一般医にはなじみが薄かった。
最初の医学的な報告は、一九四〇年のロンドン大空襲だった。救急医学で、クラッシュ症候群の“教科書”はイスラエルの研究者が書いた。
地震発生七時間後に救出された神戸市灘区の親子がいた。二十歳だった長男は九死に一生を得た。四十歳だった母、藤澤千佐子さんは亡くなった。
地震の直前、こたつに座っていた千佐子さんの姿を、横の布団で寝ていた長男は覚えている。早朝のパート勤務で、千佐子さんは午前五時半に起きていた。
一家五人が文化住宅一階に寝起きしていた。崩れてきた隣棟の屋根に、二人が全身を挟まれた。救出は午後一時ごろ。意識はあったが衰弱していた。
搬送先の病院は、殺到する患者を前に機能不全に陥っていた。転送された別の内科病院で、二人は一応の診察は受けたが、医師は「外科的な治療は難しい」と断った。
夕刻、千佐子さんは被災した同区内の病院に、長男は無傷だった三木市内の総合病院に振り分けられた。翌日、長男は透析を受け、千佐子さんは十分な治療を受けられないまま息を引き取った。
死因は「圧死」とされた。クラッシュ症候群と分かったのは数年後だった。
二人が病院を転々としていたころ、一機のヘリコプターが一人の患者を乗せ、西宮市民グラウンドを飛び立った。十分で大阪・万博公園に着陸。目指したのは、熟練の専門医が待つ大阪大学病院(吹田市)だった。
患者は二十五歳女性。昼前に救出され、県立西宮病院に運び込まれた。同病院の鴻野公伸医師(現・救急医療センター部長)は、クラッシュ症候群と直感した。過去に、建築現場で起きた労災事故で症例を経験していたからだった。
血中のカリウム値は致死量に達していた。被災した同病院には透析用の水もなく、人手も足りない。輸液で血中の毒素を薄め、透析で血液をろ過する処置が一刻も早く求められる。ヘリ搬送にかけた判断は正しかった。女性は一命を取りとめ、その後退院した。
医療が生死を分けたクラッシュ症候群。各病院で約六千人の診療録を閲覧した大阪府立急性期・総合医療センターの吉岡敏治医務局長らは一九九六年、「三百七十二人が発症し、五十人が死亡した」と報告した。うち一人が、神戸市灘区の藤澤千佐子さんだった。
救出と同時に心停止することもある。報告の数字は、病院までたどり着けなかった死者は含んでいない。
2004/4/24