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(2)兵銀破たん 崩れ去った「不倒神話」
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いまに至る危機の始まり

 戦後、日本人がだれも疑わなかった銀行の「不倒神話」。その常識が崩れ去ろうとしていた・。

 一九九五年八月三十日午後六時。神戸・ポートアイランドにある神戸商工会議所。報道陣は、第二地銀トップの兵庫銀行頭取、吉田正輝の言葉にかたずを飲んだ。「自主再建を目指したが、景気低迷や阪神大震災で資産内容が悪化し、負の遺産を穴埋めできなかった…」

 預金量二兆五千億円。戦後初の銀行破たんだった。同じころ、大阪では信組トップの木津信用組合が破たん。窓口に預金を引き出そうと顧客が殺到、怒号が飛び交った。

 金融機関が恐れる預金の取り付け騒ぎ。悪夢が現実となった。大蔵省では蔵相の武村正義が会見し、「住専問題は残るが、個別金融機関の処理問題はヤマを越した」と平静を装った。が、言葉を信じるものはいなかった。

 「今から思えば、日本経済の曲がり角であり、今に続く危機の始まりだった」。東京・信濃町。社団法人金融財政事情研究会の理事長室で、吉田は静かに語った。

 兵銀最後の頭取。大蔵省銀行局長、日本銀行理事などを歴任し、九三年六月に神戸へ。大蔵の大物OBが第二地銀トップにつくこと自体、異例中の異例。「いかに収拾するか。それが私の使命だった」

 兵銀は、中興の祖となった故長谷川寛雄の下、積極経営を展開し、七一年には香川県の高松相銀を吸収。その後も、池田銀の合併を画策するなど、拡大路線を走る。次々につくったノンバンクが、バブル期に不動産融資に傾斜した。

 それが裏目に出た。バブル崩壊とともに、不良債権は雪ダルマ式に増え、ノンバンクの債権が焦げ付いた。破たん前の不良債権は一兆五千億円、うち回収不能分は七千九百億円に上った。

 兵銀破たんに代表される第一次金融危機。前兆は九四年にあった。東京で東京協和と安全の二信組が破たん。乱脈経営が明らかになるにつれ、国会は混乱。金融機関の破たん処理に原則すらないことが明らかになる。

 大蔵省銀行局長の西村吉正は九五年六月、二信組処理の混乱を教訓に、「金融システムの機能回復について」と題する基本方針を発表する。

 金融機関の破たん認定までの流れを、当局の裁量からルール化する「早期是正措置」の導入を明示。さらに預金保険の発動に言及、「五年間はペイオフしない」の文言を盛り込んだ。今なお国民の大きな関心を集める政策が、国民の目にとまった最初の年だった。

 金融機関の破たんに際し、預金保険が預金を払い戻す仕組みで、預金者を安心させることが狙いだ。だが、預金保険法は保護する預金を一千万円までとし、全額保護しないとの考え方に基づいていた。

 二信組の処理をめぐり、「ペイオフ発動」の声も上がる中、西村は最後まで反対した。「当時、国民は銀行がつぶれるなどとは思ってもいない。預金が全額戻らないと分かればどうなったか…」。九六年に大蔵省を退き、現在、早稲田大学で教べんを執る西村は振り返る。

 その基本方針に唐突とも見える一節がある。「阪神・淡路大震災の被災地域では、地元の協力も得つつ、金融機関の機能が円滑に発揮されるように対処する」

 折しも金融の自由化が本格化、大手行の体力も弱まり、大銀行が救済の手を差し伸べる方式に限界が見え始めていた。

 金融行政が変わり始める中、兵銀から伝わる経営状況は日増しに厳しくなっていく。西村の頭に、被災地復興を目的とした「新たな銀行」の形が輪郭を整えつつあった。(敬称略)

メモ

兵銀破たん当時の金融情勢

1995年
 6月 自社さ連立政権が発足
12月 東京協和、安全信組破たん
    松下日銀総裁が就任
1996年
 1月 阪神・淡路大震災
 3月 三菱銀行、東京銀行が合併を発表
 4月 1ドル=80円を突破
 8月 コスモ信組破たん
    兵銀、木津信が同時破たん
 9月 大和銀ニューヨーク支店で巨額損失
10月 みどり銀設立
11月 大和銀に米国から撤退命令
12月 6850億円の財政資金を投入する住専処理案を閣議決定

メモ

兵庫銀行

 兵庫県内の3無尽会社が合併し1944年、兵庫無尽として発足。1951年に兵庫相互銀、1989年2月に普銀転換で兵庫銀行に。1995年3月末で預金量2兆5300億円で第二地銀首位。店舗数147カ店、行員数約2700人。1995年8月、破たん。

2003/1/16
 

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