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(4)「みどり」の大義 貧者の一灯に支えられ
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“負の遺産”抱え船出

 兵庫銀行の破たんが迫っていた。

 一九九五年八月中旬。東京・赤坂の日本銀行氷川寮。大蔵省銀行局長、西村吉正は、神戸商工会議所副会頭でさくら銀行顧問の米田准三と向きあっていた。

 兵銀の実情を説明し、こう切り出した。「震災復興を考えれば、銀行は消滅させられない。清算後に営業譲渡する受け皿をつくる。頭取はあなたをおいていない」

 米田は声を失った。地元経済に通じているだけに、新銀行の難しさは分かる。さくら銀とすれば、受ければ新銀行の面倒をみるととられかねない。巨額の不良債権を抱えた住宅金融専門会社の処理を控え、どの都銀にも余裕など無かった。

 さくらの判断は「ノー」だった。が、大蔵省は、米田の「地元経済界代表」という立場にこだわる。米田を最後に決意させたのは、日銀総裁の松下康雄の説得だった。

 太陽神戸銀時代、松下は大蔵事務次官出身の頭取、米田は副頭取。手を携えて三井銀との合併に取り組んだ。何より旧制神戸一中(現神戸高)の一期違いの先輩後輩だ。

 震災から七カ月。神戸はガレキの中にある。「受けてくれ」と松下。米田は腹を固めた。「復興に尽くす銀行になろう」

 大銀行が他を救済合併する方法は、もはや難しかった。戦後初となる銀行破たんの可能性が高まるにつれ、大蔵省・日銀はひそかに準備を進めていた。「平成銀行構想」。昭和金融恐慌時に、破たん金融機関の受け皿として設立した「昭和銀行」の“現代版”だった。

 構想は、日銀出資を核に大手行も出資して新銀行をつくり、破たん銀行の貸し出しや預金などを引き継ぐ。当局の威光を背に、出資を募る手法は「護送船団行政」ならではで、後に「奉加帳方式」として批判を浴びる。

 結果的に、適用第一号は、九四年の東京協和、安全の二信組の破たん処理となったが、乱脈経営が判明し、公的資金の是非などで国会が揺れた。

 初の銀行適用となった兵銀は、二信組処理の論議を経て日銀の出資が、返済義務のある融資に形を変えた。出資は民間主導に。それは、被災企業に出資を求めることを意味した。「額は問わない。出資者をできるだけ増やしてほしい」。西村は、神商議会頭の牧冬彦に頭を下げた。

 九五年九月二十八日、神商議で開かれた説明会で、牧は呼び掛けた。「震災で厳しいのはみな同じ。“貧者の一灯”で地域の銀行を支えよう」

 集まった資本金は約七百九億円。金融機関や地元企業など約四百五十社が出資に応じた。この時、新銀行は被災地が生んだ銀行の使命を負った。

 「みどり」に行名が決まり、十月三十一日、銀行免許が交付された。西村は米田に中国の史書、後漢書を引用してエールを送る。「『疾風に勁草(けいそう)を知る』(激しい風が吹くと強い草がわかる)。厳しい環境だが強く育ってほしい」

 西村の危ぐには理由があった。金融機関の破たん処理策は、九〇年代の金融危機の中で目まぐるしく変化した。が、当時は、預金保険制度に大きな制約があった。

 預金保険機構から援助される資金は四千七百三十億円。みどりが引き継ぐ回収不能債権約八千百億円は、この援助や兵銀の自己資本などで穴埋めしても千七百八十五億円が損失として残る。「回収可能」とされる七千二百億円の不良債権もどう転ぶか未知数だった。

 九六年一月二十九日。震災から一年を経て、みどり銀行は「負の遺産」を抱えつつ船出する。行く手には日本中が震かんした第二次金融危機が迫っていた。

(敬称略)

メモ

みどり銀行誕生当時の情勢

1995年
  12月 住専処理で6850億円の公的資金投入決定
1996年
   1月 村山首相が退陣表明。自社さによる橋本連立内閣発足
      みどり銀行開業
   4月 東京三菱銀行が発足
   7月 住専の債権を回収する住宅金融債権管理機構発足
   9月 整理回収銀行発足
  11月 第2次橋本内閣。自民党単独政権に
      日本版ビッグバン構想発表
      阪和銀行に戦後初の業務停止命令

メモ

預金保険機構

 破たん金融機関の預金払い戻しなどを業務とする特殊法人。破たん金融機関の合併などを行う救済銀行への資金援助も行う。95年当時の資金援助額は、ペイオフ(1人あたり1000万円を限度額とする預金の払い戻し)を実施したと仮定した場合にかかるコストの範囲内に限られていた。

2003/1/18
 

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