■被爆以来の特例措置も
一九九五年一月十七日早朝。神戸市中央区のさくら銀行関西本部。
「三宮、三宮南口、甲南など五店舗が全壊した」「行員が集まらない」。刻々と入る情報に緊張感が走った。
「できるだけ店を開けよう。預金者が安心する」。担当専務の高崎正弘が指示を飛ばす。本店営業部も天井が落ち、スプリンクラーの作動で水浸しだった。
三宮の兵庫銀行本店。ビルは損壊し、約四百メートル離れた事務センターに対策本部を設けた。ホストコンピューターの回線が傷み、全店舗のCD、ATMが使用不能に。被災店舗は四十五を数えた。「非常時だ」。頭取の吉田正輝は、支店長権限で五十万円を上限に払い戻しに応じるよう命じた。
同日午前九時。京町の日本銀行神戸支店。停電の中、頑丈な玄関のシャッターが、手動の音をきしませながら開いた。
「金融業務完遂への中央銀行の意思だ」。支店長の遠藤勝裕が、職員に定時開業の意味を説明した。「お金は経済の血液だ。流しこまないと身体は動かない」
金融システムを襲った大激震。県内の銀行店舗で翌十八日に開店できたのは50・3%だった。
「最大の仕事は、銀行券を円滑に供給することだった」。遠藤の言葉を裏づけるデータがある。
日銀券は、朝、日銀支店から銀行に運ばれ、夕には銀行から支店に戻る。震災当日から一月末までの動きを見ると、支店から出ていく日銀券は、前年同期より18・9%も増え、戻るケースは70・2%も減った。「お金を手元に」。日銀券の需要の背後には、被災者の不安な心理があった。
九〇年代後半の金融危機。公的資金の是非をめぐり、「守るのは銀行か、金融システムか」の論議が熱を帯びた。だが、被災地が実感したのは、銀行システムが「ライフライン」ということだった。
被災直後の混乱の中、日銀の遠藤は大蔵省神戸財務事務所長の塩屋公男と、手書きのメモで八項目からなる「金融特別措置」の発動をまとめる。
証書や通帳を紛(焼)失した場合でも払い戻しに応じる▽印鑑は母印でも可▽期限前の定期預金も払い戻しに応じる…。
しかし、市中銀行の窓口が開かなければ、被災地の安心感は生まれない。地元行は支店間の相互救援が可能だが、支店の少ない都銀や長信銀ではそうはいかなかった。
「支店を開放しよう」。遠藤は、二階の営業カウンターなどを十四機関に割り振った。二十日の開店から二月三日の窓口閉鎖まで、約三千人が十五億円の預金を引き出した。日銀の支店開放は、原子爆弾が落ちた際の広島支店以来だった。
金融システムはかろうじて維持された。だが、新たな危機が膨らもうとしていた。
震災直後の二十一日、兵庫銀行の吉田はひそかに上京。「元銀行局長」のつてで、日銀総裁、大蔵省事務次官らに相次いで要望した。「被災地は想像を絶する状態だ。早急に現地を調査してほしい」
被災地の復旧は本格化した。だが、四月には一ドル=七十九円というすさまじい円高が襲う。息切れし始めた被災企業。融資をしている兵銀の苦境は明らかだった。
七月三日、株式市場は破たん前の最安値「一五五円」を記録する。バブル期の最高値「一九三〇円」の一割にも満たない急落だった。
同月十一日、日銀は被災地金融機関を対象に最大五千億円の「復興支援貸出」を発表した。事実上の兵銀救済の「日銀特融」。しかし、破たんへのうねりは歯止めが効かなかった。(敬称略)
メモ
震災直後の金融機関の動き
1995年
1・17 阪神大震災発生
大蔵、日銀が金融特別措置を発動
1・20 市中金融機関が日銀神戸支店内で営業開始(2・3まで)
1・23 さくら銀、仮営業所対応を含めて全店での営業再開
1・24 停止していた神戸手形交換所が、さくら銀栄町支店で再開
地震関連不渡手形の猶予措置を開始
2・ 8 福井日銀副総裁が被災地視察
7・11 日銀が被災地金融機関を対象に最大5千億円の「復興支援貸出」発表
8・ 2 地震関連不渡手形の猶予措置を終了