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(7)本店不在 「いびつな金融地図」
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求められた強い中核銀行

 さくら銀行が、みなと銀行株の公開買い付けを通じてグループ傘下に収めることを発表した二〇〇〇年六月。兵庫県知事の貝原俊民は、「ようやく理想的な方向に向きつつある」との思いを強くしていた。

 「理想」とは、合併で誕生する三井住友銀行が国際金融を、地域金融業務をみなと銀が担う役割分担。みなと銀の将来像に、かつての「神戸銀行」を重ねていた。

 構造転換期を迎えて久しい兵庫。震災が一層の拍車をかける中で、貝原は中核となる本店銀行の必要性を痛感していた。

 全国を見渡せば、県域をカバーする中核行で、県庁所在地に本店がないのは、兵庫、鳥取、埼玉の三県だけ。その埼玉もその後、「りそなグループ」が同県部分を別会社にしたため、本店機能が復活する。

 カナダ一国に相当する関西経済。その一角を占め、独自の経済圏を形作る兵庫・神戸に中核的な本店銀行がない現実。みどり銀が挫折し、みなと銀が誕生した時から貝原は「みなと銀をどう位置づけるか」を考え続けた。

 「強い本店銀行が要る」。思いはみなと銀頭取の矢野恵一朗も同じだった。矢野が理念として掲げた「県民銀行」。要請にこたえ、発足早々、貝原は副知事、参院議員を歴任した芦尾長司を会長に送り込んだ。

 「いびつな金融地図」といわれる兵庫。その原因は神戸銀のたどった歴史にある。

 造船、鉄鋼、海運という日本のリーディング産業が集積した神戸。昭和初期の「一県一行主義」に沿って設立された同銀は、花形企業を取引先に持ち、東京、大阪以外に本店を置く有力都銀だった。が、高度成長期に主要取引先が首都圏に本社機能を移し始めるにつれて、「神戸離れ」が始まる。

 本店機能が神戸にあったのは、太陽銀行と合併してできた太陽神戸銀行時代まで。一九九〇年に三井銀行と合併、さくら銀になると、本店は東京へ。やがて住友銀と一緒になり「三井住友銀」に。財閥名が復活する中、「神戸」の名は完全に消え、「神戸離れの完成」ともささやかれた。

 旧居留地にそびえる十八階建ての三井住友銀神戸本部は八七年、太陽神戸銀本店として建てられた。三井住友銀発足後、広報、総務などの部署は大阪に移転、いまはコールセンターなどの人員が目立つ。

 「マザーマーケットであることに変わりはない。みなと銀との協働を軸に金融サービスを高める」と同銀首脳。前日銀神戸支店長の木村史暁は「金融を支えた企業活動の低下が背景にある」と底流を分析した。

 みなと銀誕生から間もなく三年がたとうとしていた二〇〇二年一月十日。頭取の矢野は突如、退任を表明した。

 この間、さくら銀から県内二十四カ店の譲渡を受けるなど店舗網を拡大。国際的な詐欺事件に発展した「プリンストン債」への投資で破たんした北兵庫信用組合(城崎郡香住町)の事業を引き受け、県北部の営業基盤を築いた。公金を扱う指定金融機関としても十市町を加え、地歩を固めた。

 「県民銀行の骨格をつくるのが私の使命だった。一歩間違えれば地獄だったが、発展の基礎ができた」。矢野は阪神銀から通算六年の頭取時代を振り返った。

 しかし、地域経済は予断を許さない情勢だった。前年十一月には関西西宮信金が破たん、会見の二日前には家電量販店、星電社が民事再生法の適用を申請していた。

 「まだ、暴風雨圏内にある。若い力にバトンを託したい」(敬称略)

メモ

みなと銀行発足後の動き

1999年
 4月 みなと銀行発足
2000年
 2月 さくら銀行から岩屋など淡路の2支店譲り受け(5月に2店追加)
 4月 投資信託の窓口販売開始
 5月 経営破たんした北兵庫信組の事業譲り受けを発表
11月 さくら銀行から水道筋など10支店譲り受け
2001年
 1月 さくら銀行からさらに相生など10支店譲り受け
 3月 神戸商業信組との合併発表
2002年
 1月 矢野頭取が勇退を発表
 6月 西村頭取が就任

メモ

本店銀行

 県庁所在地など地元に本店を置く中核銀行。店舗網、シェア、自治体の指定金融機関などがその条件。地銀が多いが、兵庫は神戸銀行が合併を重ね、東京に軸足を移したため本店銀行がない。地銀首位の横浜銀行は預金残高に占める神奈川県分は8割を超すが、合併前のさくら銀では兵庫県分は2割弱しかない。

2003/1/23
 

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