新しい年が始まって3カ月が過ぎようとしている。上海は3年に及ぶ「ゼロコロナ」政策が緩和された。1月の旧正月を境に感染者が爆発するのではと危惧されたが落ち着きを取り戻し、検査も「健康コード」もなくなり、あれほど厳しく規制されていた街も平静を取り戻し何事もなかったかのように日常が戻って来ている。
2022年が過ぎ去り、23年が始まろうとしていた時家族に大きな不幸が起こった。大晦日に義父の危篤の知らせが届き、1月4日未明に亡くなった。7日には父親が急死した。2人の大事な父親をほぼ同時に失うという想像すらできなかった事で新しい年が幕を開けた。
上海に移住して27年が経とうとしている。これまで多くの駐在員の友人と交流を深めて来た。夢と希望を持って海外に飛び出し異国である中国で共に奮闘する仲間。若かった頃とは違い50代をむかえ友人たちと親の話をすることも多くなった。高齢になった両親に何かがあった時に海外にいると駆けつけられない。中国と日本は飛行機で2時間ほどだ。フライトの数も多い。それでも何かが起こった時その距離は大きな障害になる。
中国がゼロコロナ政策を推し進め3年が経っていた。フライトの数は減り、到着できる空港も制限されていた。費用も通常では考えられない値段になっていた。また帰国するには48時間前の検査も課せられた。隔離もあった。中国と日本は近い。それでも様々な壁を乗り越えて帰国するには後押しする何かが必要だった。友人の中には3年の間一度も帰国していない駐在員もいた。
義父の危篤の知らせを受け、そんな壁を考えるまでもなく次男と共に48時間の検査を経て帰国の途についた。日本についたのは夕方で、その日の朝に義父は亡くなった。間に合わなかった。葬儀を含めた準備をしている中、早朝に妹から連絡があり父親の知らせが届いた。慌てて駆けつけたがもう冷たくなっていた。
不幸中の幸いは私と次男が日本にいた事だった。義父が呼び寄せたのかもしれない。父親の知らせを上海で聞いていたら、検査やフライトの予約など、数時間、数日かかるその時間に耐えられなかったと思う。
父親は戦前、6歳の時に船で日本に来た。厳格な祖父のもと華僑二世として日本と中国の架け橋に一生を捧げた人だった。映画や音楽、スポーツ、生き方や生き様。私の人生に大きな影響を与えた人でもあった。私がアメリカンフットボールをするきっかけは父親が見ていたテレビ番組だった。ラグビーやアメリカンフットボールの話も子供の頃からよく見聞きしていた。
父親の死は身体の一部をもがれるような感覚だった。喪主を務めたのも初めての経験で、当事者になってみないとわからないこともたくさんあった。父親とのエピソードは数多くあるが、いつも優しく見守るように寄り添ってくれていた。受験や入社、結婚、子供ができた時など、人生の節目でこう言われた。「人間には人格がある。小さい子供でも大人でも頭ごなしに否定したりしてはいけない」「人はいいところも欠点もあるがいいところを伸ばすように。伸ばしてあげないといけない」「兄弟は何があっても仲良くしないといけない」。そんな言葉が思い浮かぶ。
父親が亡くなってからは身体と精神のバランスが崩れているのを自覚していた。前を向かなければと思いつつも思いだしては悲しみに打ちひしがれていた。
息子にとって父親の存在は大きい。自分が父親になり子供たちにもそういう存在でありたいとも思う。祖父の代に日本に渡ってきた華僑一家。私は華僑三世になる。父親はよく「一代一代繋がっている」と言っていた。祖父から父親。父親から私。私から子供たちへ。時代が変わっても伝えていかなければならないことはたくさんある。
通夜の場で集まった親戚がワイワイガヤガヤと父親や家族の話をしていた。親戚の一人がこんな事を言っていた。「人はいつか亡くなる。人間には順番がある。順番を間違わなければいい。幸せな人生だったと思う」
「人間には順番がある」。亡くなった事は悲しく辛い事だけど共に過ごした50年以上の時間は永遠に残る。上海にもうすぐ春が来る。寒く辛かった3年に及ぶコロナ政策も収束し笑顔と活気が戻りつつある。日本と中国の架け橋にと強く思っていた父親の心情は、私が上海と日本を行き来しながら自分の意思で引き継いでいる。
2023/3/22