姫路

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西二階町付近を走った機関車の写真パネルを見せながら、自身の経験などを語る黒田権大さん=姫路市平和資料館
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西二階町付近を走った機関車の写真パネルを見せながら、自身の経験などを語る黒田権大さん=姫路市平和資料館
がれき撤去のため、姫路市街地を走っていた列車。「ごみ取り列車」などとも呼ばれた=県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)
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がれき撤去のため、姫路市街地を走っていた列車。「ごみ取り列車」などとも呼ばれた=県立歴史博物館蔵(高橋秀吉コレクション)
姫路市平和資料館に寄贈された絵画「復員」。焼け野原になった姫路の街を走る「がれき列車」が描かれている=姫路市西延末
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姫路市平和資料館に寄贈された絵画「復員」。焼け野原になった姫路の街を走る「がれき列車」が描かれている=姫路市西延末
線路が通っていた位置を指さす川嶋雄介さん=姫路市下寺町
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線路が通っていた位置を指さす川嶋雄介さん=姫路市下寺町

 終戦後の姫路駅北側の様子を描いた一枚の油絵が、姫路市平和資料館(兵庫県姫路市西延末)の正面玄関に飾られている。駅から姫路城を望む構図には、空襲の被害を免れた大天守の前を横切るように、貨車をつないだ蒸気機関車(SL)が走る。聞けば、臨時の線路が市街地に引かれ、戦災がれきを運び出していたという。15日で終戦から77年。「がれき列車」の記憶を証言や資料からたどりたい。(山本 晃)

 「ポー」。焼け野原となった昼下がりの姫路市街地に、SLの汽笛が響く。数両の貨車をつなぎ、西の方から市街地にゆっくりと入ってくる。列車が止まると、地域の青年団員や学生たちが協力し、慌ただしくがれきを貨車に積み込む。作業が終わると、もと来た線路を引き返していく-。

 「汽笛の音が聞こえたら幼なじみと線路に駆け寄って、汽車を見に行くのが楽しみやった」。姫路駅の北側で生まれ育った川嶋雄介さん(84)=姫路市=が少年時代を懐かしむ。

 川嶋さんによると、走っていたのは当時のメインストリートみゆき通りより西側で、今の西二階町や魚町の周辺。道路上に線路が敷かれたという。元から線路があった所ではなく、レールや枕木を貨車で運びながら、国民服姿の人たちが、線路を少しずつ延ばしていく様子も記憶している。

 16歳で姫路空襲を経験し、各地で語り部活動を続ける黒田権大さん(93)=同市=も、自身の講演で度々「がれき列車」のことに触れてきた。「学生もがれきの片付けを手伝っていた。線路のおかげで、姫路の復興はいち早く進んだと聞いている」。市平和資料館には、現在の西二階町付近を走る線路などの写真が複数保存されている。

 鉄道は一度で大量に人や物を運ぶことができ、がれきの搬出に活用された例はある。2011年の東日本大震災では、東北の被災地から既存線路を利用して関東地方まで運んだ。姫路ではわざわざ線路を新しく敷いて、がれきの撤去を急いだ。なぜだろう。

 答えの一部は市が1960年に発行した「復興の歩み」にあった。「(姫路駅の)改良計画で相当量の盛り土を必要としたので、市街地まで線路を引き込み、貨車にて清掃したがれきを運搬して、盛り土に流用した」。全国の主要都市の復興状況をまとめた旧建設省(国土交通省)の「戦災復興誌」にも、同様の記述が見られる。

 複数の資料によると、当時、国鉄は姫路駅の位置を現在より南に約200メートル移転する計画を立てていた。駅と姫路城を結ぶ大手前通りなどを整備する市の復興計画も、当初はこの移転に合わせたものだったとされる。撤去を急いだ理由がぼんやりと浮かび上がる。

 「当時の姫路駅南は荒れ地が広がっていた。土地をならすため、がれきを埋め立てた話は理にかなっている」と分析するのは、姫路の歴史に詳しい郷土史家の芳賀一也さん(61)。取材では「飾磨港線(廃線)を通って飾磨方面へ捨てていたのでは」という証言もあり、複数の場所にがれきが運ばれていた可能性もある。

 駅の移転計画はその後、国鉄の財政難を理由に中止となる。市街地を走っていた線路も、戦後数年のうちに役目を終えるとすぐに撤去され、今の街中から痕跡を見つけることはできない。芳賀さんは「(列車での戦災がれき運搬は)姫路以外では聞いたことがない。写真が多く残っている一方、全体像をはじめ不明な点が多く、とても興味深い」と話す。

姫路戦後77年
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