姫路

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兵学校での日々を語る山室國康さん。手にした短剣は入学時に与えられた=姫路市
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兵学校での日々を語る山室國康さん。手にした短剣は入学時に与えられた=姫路市
当時の集合写真なども大切に保管している
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当時の集合写真なども大切に保管している
宮島などへ向かったというボート競漕(きょうそう)の写真(山室さん提供)
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宮島などへ向かったというボート競漕(きょうそう)の写真(山室さん提供)

 広島市の南、瀬戸内海に浮かぶ江田島。この地には太平洋戦争の終戦まで、旧日本海軍の幹部養成機関「海軍兵学校」があった。兵庫県姫路市の山室國康さん(95)もここで青春時代を過ごした。勉強と訓練漬けの日々。原爆投下直後、上空を覆うきのこ雲を見た。「故郷を思う暇もなかった。日本軍の戦果すら、聞かされなかったように思う」。77年前の記憶は薄れることなく、今も頭にこびりついている。(山本 晃)

 山室さんは飾東で生まれた。姫路中学に入学後、試験を経て1943(昭和18)年、75期生として海軍兵学校に入った。「戦地で命を落とすことが当たり前の時代、どうせ行くのなら上を目指したかった」。志願者は全国から10万人を数え、約3500人に絞られたという。

 当時16歳だった山室さんは山口県の岩国にあった分校で学び、その後、江田島本校に移った。授業では数学や物理だけでなく、敵性語とされていた英語も学んだ。カッターボートを分隊でこぎ、モールス信号を練習した。起床から就寝まで分刻みだったといい、「勉強と訓練にひたすら打ち込んだ。姫路に帰省できたのは一度きりやった」と振り返る。

 45年に入ると、米軍の本土空襲が本格化する。江田島に近い広島県呉市でも、多くの艦船や軍事施設が壊滅的な被害を受けたが、海軍兵学校での授業は続いた。

 8月6日もまた、いつもの朝だった。教室の席に座り、授業の開始を待っていると、外が一瞬光り、ごう音が響いた。外に目をやると、もくもくと北の空全体を包む込むように広がる黒い雲が見えた。これまでの授業で原爆の大まかな仕組みを学んでいた。校内ではすぐに「原爆ではないか」とささやかれた。

 15日は運動場に集められ、玉音放送で終戦を知った。すぐに軍事関連の教科書や資料は焼き、帰郷の指示が出た。シーツで簡易のかばんを作り、貨車の荷台に乗って姫路へ。山室さんはその後、地元の神姫バスに就職し、事務畑を歩んだ後、独立して保険関係の仕事に長年従事してきた。

 「兵学校は、まさに人生の修業の場やった。行ったことに後悔はないが、戦争はやめた方がいい。その後の人生で、話し合いで解決できることを学んだ」。山室さんは静かに語った。

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