賀川豊彦は、貧民窟に留(とど)まって貧困問題の解決へ向けて努力をした。1922年に大阪労働学校を開き、校長を務めた。この学校の講師陣の多くは、戦後、わが国が復興へ向かう際の要職を担った。
クラボウの大原孫三郎は、倉敷の林源十郎の介在があって、児童福祉の父・石井十次のスポンサーとなった。さらに大原は石井の死後、大阪市に石井記念愛染園を1917年に開設した。そして彼は、大原社会問題研究所を1919年に大阪市天王寺に開設した。先に記した大阪労働学校の講師の多くは、この研究所の先生たちと重なる。
この記事は会員限定です。新聞購読者は会員登録だけで続きをお読みいただけます。