淡路市富島。西風が強く吹く、海沿いの集落を、牛乳瓶を積んだ高田一夫さん(63)の保冷車が走る。
営む和菓子店は、阪神・淡路大震災で全壊。自宅と合わせ、復興まちづくりの道路整備のため移転した。「跡を継いだ息子に迷惑はかけられん」。週3日の牛乳配達で、再建した自宅兼店舗のローンを返す。
配達先は高齢者が多い。「顔を見ないと心配。できるだけ声かけしながら」。でも震災後、区画にきれいに並んだ宅地に立ち入るのは、ちょっと遠慮してしまう。6時間かけて110軒余り。それも震災前より30軒ほど減った。
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富島は、地震で建物の8割が全半壊し、26人が亡くなった。町の復興を、旧北淡町(現淡路市)は土地区画整理事業に託した。パンフレットには「元気な町づくり」の文字が躍った。
事業は昨年終わった。細く入り組んだ路地は消え、街並みは一変。15メートル幅の道路が通った=写真。公園も整備された。しかし、事業の長期化もあり、多くの人が集落を離れた。人口は約1560人。震災前から約700人も減った。
「救急車が入れる道ができたのはよかった」と高田さん。地震後、消防分団長として救助に走ったが、車が入れず、苦労した。
一方で、活性化は「『絵に描いたもち』になった」と肩を落とす。店舗の集約で人を呼び込む構想もあったが、まとまらなかったという。2年前には富島と明石を結んだ高速船航路が休止された。「気候も厳しく仕事も少ない。航路休止でますます不便になった」
神戸新聞社とひょうご震災記念21世紀研究機構が行った住民アンケート。富島では約半数が「人付き合いが減った」「(事業が)活性化につながっていない」ことに不満を示した。
「昔がなつかしい」と書いた1人暮らしの70代の女性。幅4メートル足らずだった自宅前の道路は、15メートル幅に広がった。「道が広すぎて、お向かいと話もでけん。車がびゅんびゅん走るから、渡るのもこわい」
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3年前の能登半島地震の被災地・石川県穴水町も、被害の大きかった駅前地区の活性化を「道」に託す。区画整理を取り入れ、県は「復興シンボルロード」の整備を進める。
昨年12月。シンボルロードへと続く県道の拡幅工事に伴い、清水一洋さん(40)の理容店兼自宅が取り壊された。「父を亡くし、母と2人で建てた家。結婚し、子どもを育てた家。つらくて立ち会えなかった」
高齢化が進み、地震前から商店街や集落の活性化が必要とされていた。「人を呼び込む仕掛けが必要。その一つが道路」と町。しかし、区画が整理された集落は今も更地が目立つ。
仮設住宅区長だった皆森陽一さん(61)は、区画整理後の移転先が見つからず、駅前の地区を離れた。「町は道路やイベントで交流人口を増やそうという。でも今住んでいる人をもっと大事にしてほしい」
清水さんは、シンボルロードの予定地沿いに再建した家で新年を迎えた。
「何のための道か、僕にはまだ分からんですよ」
道の向こうに、どんな未来があるのだろう。(岸本達也)
2010/1/13