姫路城西側を流れる船場川沿いの「千姫の小径」に建てられた碑。連歌「船」から、忠刻と千姫の句が刻まれている=姫路市本町
姫路城西側を流れる船場川沿いの「千姫の小径」に建てられた碑。連歌「船」から、忠刻と千姫の句が刻まれている=姫路市本町

■和やかな宴に加わる母子

 後の徳川2代将軍秀忠とその正室江(ごう)の長女として生まれた千姫(慶長2~寛文6=1597~1666)年は、豊臣秀吉の遺言により7歳(年齢はいずれも数え年)で秀吉の子秀頼(ひでより)に嫁ぎました。秀吉は、婚姻によって徳川家康を取り込むことで、自身が亡き後も豊臣政権の安泰を図ろうとしたのですね。ところが、やがて征夷大将軍となり幕府を開いた家康は、依然として立ちはだかる豊臣家の権威を一掃しようと大坂冬の陣、夏の陣を引き起こします。戦乱の中、夫やその母淀殿を残してひとり徳川方に救い出された千姫の助命嘆願もむなしく、豊臣家は滅亡しました。慶長20(1615)年、千姫は19歳でした。