姫路文学館北館1階の「姫路城歴史ものがたり回廊」=姫路市山野井町
姫路文学館北館1階の「姫路城歴史ものがたり回廊」=姫路市山野井町

■「蚕子(ひめこ)落(お)ちし処(ところ)は、すなはち日女道丘(ひめじおか)と号(なづ)ぐ」

 姫路城が世界文化遺産に登録されて30周年。姫路文学館には、お城にまつわる物語を資料や映像でたどる「姫路城歴史ものがたり回廊」という常設展示室を設けています。今月から1年間は、太古よりつむがれてきたさまざまな「お城ものがたり」をお届けしましょう。

 そもそも、なぜ「ひめじ」という地名がついたのでしょう? その由来は「播磨国風土記(はりまのくにふどき)」に書かれています。

 奈良時代初めの和銅6(713)年5月2日、朝廷は今の東北から九州まで60ほどの国々に、報告書を出すよう命じました。内容は、地名に好字(よきじ)(ふさわしい漢字)を付けること▽鉱物や動植物などの産物▽土地が肥えているか、痩せているか▽山や川、原野の名前の由来▽古老による言い伝え-です。中央集権体制の国づくりを進める中で、諸国の情勢を把握し政治に生かそうとしたのですね。

 そうして作られた報告書の一つが播磨国風土記です。「ひめじ」の由来と見られるのは「飾磨郡伊和里(しかまのこおりいわのさと)」のくだり。なんと神さまの“親子げんか”が事の始まりでした。

 昔、オオナムチノミコトは息子ホアカリノミコトの乱暴さを苦にしていました。そこで父は因達(いだて)の神山(かみやま)へ来て、息子を水くみにやり、すぐに船を出して逃げたのです。捨てられたと知ったホアカリは怒って風波を起こし、父の船を難破させてしまいます。その時、船が壊れた場所は船丘、波が起きた場所は波丘、積み荷の琴が落ちた場所は琴神丘(ことかみおか)、甕(かめ)が落ちた場所は甕丘(みかおか)、犬が落ちた場所は犬丘などと呼ばれるように。そして蚕子(ひめこ)(カイコ)が流れ着いたところに「日女道丘(ひめじおか)」の名が付いたと書かれています。

 姫路平野を見渡すと、小さな丘がたくさんありますよね。昔は川が暴れ平地が水浸しになると、それぞれの丘が島に見えたのでしょう。そんな風景からインスピレーションを受け、丘の名前につながる神々の物語が作られたのではないかしら。1300年以上も昔の人の思いを伝える記憶装置として、播磨国風土記は姫路城にも劣らぬ文化遺産だと思います。

 さて、その編纂(へんさん)に当たったのは播磨国府に勤めていた国司です。今の姫路郵便局辺りを中心に役所や官舎などが広がっており、朝廷から9人の国司が派遣されてきていたと思われます。任期は4~6年でしたから、風土記に携わった可能性がある人物は3人ほど。そのうちの1人が万葉集にも出てくることは、姫路の人にもあまり知られていません。

 役人としては石川朝臣君子(いしかわのあそんきみこ)、万葉集には石川大夫(まえつきみ)の名前で登場します。「大夫」は役職や下の名前ではなく「石川さん」のような敬称。第九巻の一七七六番と一七七七番の2首を贈られた人物です。

 〈絶等寸(たゆらき)の山の峯(お)の上(え)の桜花(さくらばな)咲かむ春べは君し思(しの)はむ〉

 〈君なくはなぞ身装餝(よそ)はむ匣(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(おぐし)も取らむとも思はず〉

 詞書(ことばがき)には、石川さんが任を終えて奈良の都に戻る時に播磨(はりまの)娘子(おとめ)、つまり名もなき土地の娘が別れを惜しんで贈った歌とあります。〈絶等寸の山〉は手柄山だという人もいますが、やはり国府に近い姫山だったんじゃないでしょうか。今のようなソメイヨシノではないまでも、万葉人もそこで桜をめでていたのですね。

 「姫路城歴史ものがたり回廊」では播磨国風土記のレプリカやそれぞれの丘の推定地を示したパネルなどを展示したり、石川大夫の送別の宴を再現したビデオを上映したりしています。いにしえの物語や歌を通してみることで、お城が建つ前の風景にも出会っていただけるよう願っています。(聞き手・平松正子)

【播磨国風土記】717年以前の成立とみられ、現存する平安時代の三条西家本(天理大学附属天理図書館蔵)は国宝に指定されている。現存本には明石郡や赤穂郡の記事が欠落しているが、まとまった形で残っているのは播磨、出雲、常陸、豊後、肥前の5カ国のみ。