太平洋戦争の終結から15日で丸77年。終戦の年、作家の永井荷風(1879~1959年)が9日間と短期間ながら兵庫県明石市に滞在した。文豪の目に、遭遇した空襲や当時の明石のまちはどう映ったのか。日記「断腸亭日乗」に残された記述(一部を現代語訳)をたどりたい。(長尾亮太)
東京の住まいを空襲で焼かれた荷風が明石に着いたのは1945年6月3日。「列車進行中に空襲に遭うことを恐れ」ながらの訪問だった。明石もこの年の1月、現在のJR西明石駅南東にあった川崎航空機工業(現・川崎重工業明石工場)を標的にした空襲を受けて、327人が亡くなっていた。
明石の実家へ戻ろうとする作曲家菅原明朗(めいろう)に勧められ、荷風も同行した。しかし菅原の実家に着くと被災者でいっぱいだったため、菅原家の菩提寺(ぼだい)である西林寺(大蔵町)に滞在した。
5日朝に空襲警報があり、「黒煙がたちまち須磨海岸のかなたに昇るのを見た」。神戸市が、3月と5月に続いて大空襲に遭っていた。西林寺が面する海岸に近隣住人らが家財を運び出した。警戒は2時間ほどで解かれたが、翌日も東方の丘陵の背後から黒煙が盛んに立ち上っていた。「昨日朝の兵火がいまだにやんでいないことを知り、被害について思った」
一方で滞在先の寺で、荷風を喜ばせたのが風光明媚(めいび)な海辺の景色だった。波が打ち寄せる石垣上に身を置くことが好きで、野菜が青々と茂っている間に夏菊やケシの花が咲くのを見て、「海を背景とした静物画ではないか」と感嘆。雨音のように静閑な波音を聞き、心と耳を澄ますことができて「何等の至福ぞや」。
明石のまちも歩いた。髪を切ろうと明石駅近くへ行ったが、どの店も客でいっぱいだったので、明石公園へ。天守台跡に立って眼下に市街地や港を眺めた。続いて明石神社を拝んで、柿本神社も訪ねた。麓の霊水「亀の水」をすくって「清冷氷のようだ」。神社隣の月照寺の山門を「とても古風で優雅だ」と評す。ここから見る港の眺望も「明石城跡の公園に劣らない」とたたえた。
そんな明石から離れようと荷風に決心させたのが、やはり空襲だった。9日午前9時ごろ警報が出て、寺に避難した人たちと、玄関の階段に座りラジオを聞いていたときのことだった。
「たちまち爆音が轟然(ごうぜん)と家屋を震動させ、砂ぼこりを巻いた。うろたえて菜園の壕(ごう)の中に隠れ、かろうじて無事だった。家に入ると戸や障子が倒れて砂や土が散らかっていた」
この日の空襲で米軍は川崎航空機を標的にしたが、爆弾は明石公園などにも落とされた。明石が遭った5回の主な空襲の中で、最多となる656人が亡くなった。
散歩して夕方に寺へ戻ると「今朝の爆撃で死んだ人の家族で、泣く泣く回向(供養)を頼みに来る人が跡を絶たず、寺主は応接で暇がない様子だった」。明石のまちも近いうちに焼き払われる-との流言が広まり、人びとは怖がったという。
11日夜、荷風は寺主や避難者に別れを告げて就寝。翌12日早朝、菅原らと共に岡山へ向けてたった。
■「避難者の記録」の性格も 西林寺前住職・二階堂さんに聞く
永井荷風のみならず、彼が滞在した西林寺(明石市大蔵町)もまた、戦争に翻弄(ほんろう)された歴史を持つ。七十余年の時を経て、再び緊迫の度合いを増す国際情勢と、私たちはどう向き合ったらよいのだろうか。前住職の二階堂正純さん(70)と一緒に考えた。
-荷風の来訪に寺はどう対応したのか。
「偉い先生が来ると聞いて緊張していたが、荷風さんの格好がみすぼらしくて拍子抜けしたという。空襲から逃れているのだから、身なりが整っていなくて当たり前だろう。すでに避難者でいっぱいの本堂ではなく、別棟の8畳間を提供したほか、檀家(だんか)が育てたイチゴを出すなど歓待した」
「現在、ロシアによるウクライナ侵攻で多くの避難者が出ているが、荷風さんが残した日記『断腸亭日乗』は避難者の記録としての性格も帯びていると思う」
-日乗には、西林寺の主人が「年四十あまりなる未亡人」として登場する。
「私の祖母すみゑです。亡き夫との間に子どもがなく、熊本の寺から結核で両親を亡くした兄弟2人を引き取って育てた。兄弟は2人とも戦地へ赴いたが、実は荷風さんが来た当時、すでに兄の慈照は乗っていた船が沈んで亡くなっていた。祖母がそのことを知るのは、戦後2年たって死亡告知書が届いてから。『跡継ぎが戻るまで』と寺を守り続けた祖母は心を痛め、境内に供養塔を建てた」
-時代に翻弄された祖母の姿を見て育ち、にわかに緊迫の度合いを増す国際情勢についてどう考えるか。
「戦争はあかんわ。それまで当たり前に送れていた人びとの日常生活が、完全になくなってしまう。戦後生まれの私たちは欧米式の考え方をするけれど、違う世界観を持つ人と一緒にやろうとすると、相手の世界観を理解するところから始めないと。さらに、私たちの価値観が広めてよいものならば、どれだけ相手に分かってもらうために努力を重ねられるかが問われる」
【永井荷風(ながい・かふう)】 東京生まれ。米国やフランスへの外遊を経て、「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表。慶応大教授となり「三田文学」創刊に編集主幹として携わる。江戸文化や花柳界をテーマにした作品でも知られる。「●東綺譚(ぼくとうきだん)」「つゆのあとさき」などの小説をはじめ、随筆やオペラなどの作品も残した。日記の「断腸亭日乗」は1917(大正6)年から、亡くなる59(昭和34)年まで42年間にわたり書き続けた。
※●はさんずいに墨

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