病室の窓から焼け跡の更地が見える。入院して、六カ月が過ぎた。
「夜、窓開けたら、虫の声が聞こえる。もう秋やねんなぁ」
まくら元にテープで張り付けられたカレンダーは、入院した日から一日ずつ、きちょうめんに斜線が引かれている。
敏弘さん(55)の自宅は、神戸市長田区内の仮設住宅。今年二月、体重が三五キロまで落ち込み、トイレにも行けなくなった。飲み続けた酒のせいで、体は限界にきていた。
「孤独死寸前やった。あのまま十日ほど仮設におったら、自分も、新聞に載ってたやろな」
震災で、住んでいた長田区のアパートは全壊。区内の公園にある会館に避難した。以来、アルコール漬けの日々が続いた。仕事のない者ばかりが集まり、昼間から飲む。だれかが必ず酒を持っていた。仮設住宅に入ってからも同じだった。
「男のひとり暮らしで、収入もないとなれば、逃れるのは酒。仮設にはそんな人、いっぱいおるよ」
二十代から、肝炎や糖尿病で何度か入院している。しかし、今回の入院で初めて、酒が切れたときの禁断症状を経験した。天井に虫がはい回り、自分の体の上にボトボト落ちてくる幻覚。
「あんな思いは絶対に嫌や。もう酒は飲まない」。外出したとき、酒の自動販売機に百円玉を入れたこともあるが、踏みとどまった。
◆
飲みはじめたのは、故郷の四国を出て、神戸港で働き出したころだった。一杯三十円のどぶろくをよく飲んだ。部屋に戻ってひとり、帆船のプラモデルを作りながら、ちびりちびり飲むことも多かった。
機関士として船に乗るようになると、何カ月も船底でエンジンを守っている航海中、楽しみは酒だけだった。
今でも、海の話になると目が輝く。が、海からはもう、ずい分前に離れた。コンピューターを使い、指一本で大きな船が動く今の時代、自分のような者は必要ない。陸に上がり、いろいろな仕事をした。船会社、製紙工場、土木作業。震災前は、タクシーに乗っていた。
今回の入院で腸にポリープが見つかり、二度も手術した。今、体重は四五キロほど。体調は戻ってきた。医師からは少しずつ体を動かすように言われている。しかし、仮設住宅に戻った後の生活を考えると、不安がよぎる。
力仕事をする体力はないし、もう雇ってもらえるところはないだろう。食事のコントロールも自分でしなければならない。
何より「目標がない」と感じる。「家を建てたいとか、車を買いたいとか、そんな将来の目標でもあったらええけどね」
敏弘さんを含め、依存症の人たちの訪問を続ける西神戸YMCAのボランティア、宗利勝之さんは「アルコールの問題を抱える人たちの退院後の”受け皿”がほとんどない。酒をやめ、生きがいを見つけられる作業所のようなものを作りたい」と話す。東京にあるそうした作業所を視察し、神戸市内で土地探しを始めた。
◆
八月最後の日。敏弘さんは、義援金申請の書類をそろえるため、久しぶりに仮設住宅に戻った。
わが家は、やっぱり落ち着く。トイレ、ふろ、台所は共用だが、六畳一間はひとり暮らしにちょうどいい。
「最低の生活でええんです。おおらかに生きられたら」
部屋の真ん中には、入院前まで使っていたストーブ。季節が巡る中で、主(あるじ)の長い不在を物語る。
1996/9/11