すき間風が吹き込む「全壊」の部屋で、長峰啓介さん(61)=仮名=は「最期の姿が頭に焼き付いて離れない」と言った。
病室の扉を開けると、九十歳の父は顔に白い布をかぶりベッドに横たわっていた。震災から三カ月。寒々とした光景だった。駆けつけた親族は声を出せず、沈黙が覆った。
父はほとんど寝たきりで、長男の長峰さん一家と神戸市内で同居していた。震災で安息の地を求める生活に変わった。避難所ではおむつを替えようとして迷惑がられ、いられなかった。近くの福祉施設はいっぱいだった。
親類が受け入れたが、介護疲れから悲鳴を上げた。長男は受け入れ施設を探した。やっと二月上旬、加古川市内の施設に移った。
度重なる移動で父はすっかり弱った。施設でも顔色が悪く、食事を取らなくなった。四月初め、「おなかが痛い」と入院、その五日後、腸閉そくで息を引き取った。
家族は「関連死」の申請をしたが、震災との因果関係が不明であるとして認められなかった。
震災後の度重なる移動が、高齢者を衰弱させたことは、老人福祉施設「高齢者ケアセンターながた」の調査でも明らかだ。三回以上の移動を経験した高齢者の約四〇%が歩行能力を低下させた。七回移動して死んだ八十七歳の男性もいる。
「関連死」と認定された人のうち、六十歳以上の人はほぼ九〇%を占め、八十歳以上の人は約四五%に上った。対して、十歳以下の子供の関連死は二人、全体の約〇・二%。同じように”災害弱者”といわれ、環境に影響されやすい子供たちは守られた。
兵庫県小児科医会が震災後の患者数(十五歳以下)を調べたデータがある。被害の大きかった神戸市内六区の二十四診療所では、昨年一月の患者数が前年比一八%減、二月は同四七%減。受診実績が前年同期を大きく上回った高齢者の場合とは対象的だ。
「親が若くて機動力があり、早めに被災地からの脱出を決断したことで子供の健康被害は最小限に抑えられた」。同医会理事の大石康男医師は、結果をそうみる。
「社会全体が子供に優しく、高齢者に冷たかったとはいえない。地域には助け合わなければという思いはあった」と話すのは、被災地で要介護老人の実態調査を行った冷水(しみず)豊・上智大学教授。
極端な差となった背景を、教授は「家族や地域の思いを受け止められる拠点施設がなかった」と分析した。
神戸の福祉サービスの不足は、震災前から指摘されていた。特別養護老人ホームの入所待ちは同市内で約千二百人とされ、設置率は全国五十九の都道府県・政令指定市の中で三十五位。デイサービスは同五十三位、ホームヘルパー充足率同四十九位(一九九三年度)。
教授らの調査では、震災半年後、高齢者を介護していた五十歳以上の割合は約八割、六十歳以上は五割に達した。その多くは女性の手にゆだねられており、介護者の高齢化がくっきり浮かんだ。
震災で急増した人的需要を、もともと不足していた施設がカバーできるはずはなかった。
「最小のコストで最大の福祉」を看板にした神戸市。それが実態に合わないものだったことを震災は証明した。
同ケアセンターの中辻直行施設長は「このままでは在宅福祉のバランスが崩れる度に悲劇は繰り返される」と警告した。
1996/2/10